13.ソフトのバンドリング(bundling)


IBMはハードウェアとソフトウェアを基本的には抱き合わせたコンピュータシステムの販売方法をMVS/SP(System Product)の前まで続けていた.この販売法をバンドリングと呼んでいる.しかし1980年に IBM は正式にMVS/SPをハードウェアと分離した価格体系としソフトウェアを有償化した.同時にプログラムの著作権を主張したのである.この背景には米国でのソフトウェアの著作権が1981年から認められるという法改定があった.これに伴いCPUアーキテクチャを記述したPOO(Principles of Operation),OSとアプリケーションプログラムとのインターフェースである「スーパバイザマクロ命令」「データ管理マクロ命令」などのマニュアルなどはIBMとのライセンス契約が必要となった.ちなみに日本でのソフトウェアの著作権はこの事件をきっかけとして法整備が進み1985年に改定され成立する.

MVS/SPより前のMVSなどにはソフトウェアに著作権がないことからIBMのOSなどのソフトをPublic Domainとして利用することが許されていた.IBMはソースコードを顧客に提供していたため技術力のある顧客はIBMのソフトに手を加えIBMがサポートしてくれない機能の追加などを行っていた.余談だが,プリンタにジョブ結果の出力を行なう機能にスプール(Spool)があるが,この機能はNASAによって開発されたと聞いている.NASAではこれをHASP(Houston Asynchronous Simultaneous Programming)と呼んでいた.我々のグループでコンピュータシステムシミュレータ(HCSS)の開発する前にIBMのCSSを試用するため室町3丁目の確かワカマツビルにあったIBMのデータセンターを利用したが,その時のプリンタ出力にはHASPの文字が模様として表示されていた.IBMは顧客の開発した有益なソフトウェアを買取り,OSの標準機能として採用する方策を採っていた.今ではスプール技法はPCのOSでも標準となっている.

IBMはSystem/360により市場を70-80%独占してしまった.この状況では一旦IBMユーザになりソフトを開発して利用し始めるとIBMのコンピュータからIBMと互換性のない他社のOS下で実行するコンピュータに移行できなくなる.IBMのバウンダリング商法は顧客を囲い込む強力な武器になっていた.しかしこの状況は司法省から独占禁止法に触れるとして訴訟の対象になりかねない.またPCMビジネスに参入する企業を排除することになりかねなずIBMは絶えず司法省の独占禁止法を気にしながらビジネスを続ける状態であったと云われている.

1972年にはSystem/370は仮想記憶を実現する新しいOSを発表する.従来のOS/360におけるMFT(Multiprogramming with Fixed number of Tasks)の拡張であるOS/VS1(Virtual Storage), MVT(Multiprogramming with Variable number of Tasks)の拡張であるOS/VS2 Release1である.これらはSVS(Single Virtual Storage)とも呼ばれていた.2つのOSは共に仮想記憶領域が24ビットの最大限である16MBまでを提供していた.MFTはジョブ領域数が固定的であるがMVTは可変である点が異なる.この2つの新OSは仮想記憶を採用している点以外にはそれほど新しい点は無かった.しかし,全く異なる設計思想を持ったOS/VS2 Release2がほぼ同時に発表された.この製品が今後のIBMビジネスを約束する画期的なOSであった.つまりReleaseの番号が上がったという代物ではないことは明白であった.これがIBMの新たな時代の幕開けとなるMVS (Multiple Virtual Storage)と呼ばれるOSである.

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MVSの特徴点を簡単に説明すると,
(A)各ジョブに最大16MBのアドレス空間を与えることができること,
(B)TSS(Time Sharing System)を標準サポートしていること,
(C)最大8台のCPUからなる主記憶共有型のマルチプロセッサ(TCMP: Tightly Coupled Multiple-Processor)と8つのMVSからなるコンピュータシステムをチャネル結合する疎結合マルチプロセッサ(LCMP: Loosely Coupled Multiple-Processor)などを標準機能としていること, などである.
(A)と(B)はMITのMulticsと同一思想を採用している.

IBM Systems JournalにはDr. A.L. SherrがSRM(System Resource Manager)を論文として掲載した.SherrはMITにおいてMulticsにおけるTSSの性能評価を待ち行列モデルで研究し博士論文を書いた人物である.私はこの論文を読んで彼がIBMでTSO(Time Sharing Option)の研究をしていたこと,その延長線上でMVSのスケジューリング方式の設計担当になったことを知った.この論文から直感的にMVSが今後のIBMを支える重要なOSであると思い,3度も論文を読み直して日本語に翻訳し自分の意見を添えソフトウェア工場のシステムプログラム部に紹介した.当時は山本晃司主任技師がVOS2(IBMのOS/VS1相当)の担当課長であった.また大西勛主任技師はOS7(HITAC8700 /8800のOS)担当で大型コンピュータ対応課長であった.

このころ通産省はSystem/370によるIBMの攻勢に対して,国産コンピュータメーカー6社が乱立している状況が危機にさらされると思い,コンピュータ業界のグループ化を計画していた.そこで誕生したのがIBM互換路線とする富士通—日立グループであった.互換機として開発されたのがMシリーズである.この時の取り決めは;大型ならびに小型コンピュータは富士通,中型コンピュータは日立という区分であった.しかし,大型コンピュータには大きな利益が期待できるため,日立は必然的に大型コンピュータへの取組が課題となった.一方,富士通も中型機を製品系列に入れない限りビジネス展開は不利になる.ということで両社は経産省の指導による基本合意には従うものの,相互にこの区分外の製品開発を進めざるをえなかった.

日立の大型コンピュータ開発へのアプローチは2つあり工場はその選択に迷っていた.通産省の超高性能電子計算機開発のメインコンストラクターとなっていた日立はHITAC8700/ 8800を開発しそのOSとしてOS7を既に製品として出荷していた.東京大学大型計算機センターや気象庁など科学技術計算分野ではその実績を得ていた.問題はIBM互換とするためのOSをどのように開発するかにあった.そこでMシリーズのOSとしてOS7を改造してIBMのスーパーバイザマクロ命令やデータ管理マクロ命令のようなアプリケーション・インタフェースを開発することで互換性を確保するアプローチが有力な選択肢であった.このような状況のときに,私はMVSのSRMを(ソフト)の設計部の主任技師や計画部の角谷主任技師ら,これらキーパーソンに説明したのである.このとき,SRMの先進性だけではなくIBMが多大な精力をこのOSに掛け今後の主力OSに位置づけることを説明した.IBMのMVSに関する学会発表は他にもあったが,そこにはIBM創設以来最大のプログラミングエフォート(programming effort)であると書かれていた.またそのサイズは500万行以上のプログラミングであるとも記されていた.
<現在のWindowsなどではこれよりも一桁大きなサイズになっていると聴いているが,当時は人類の作り上げた最大のソフトウェアであったと思う.>

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HITAC8700/8800はマルチプロセッサ構成,TSS,多重仮想記憶などの基本機能はMVSと同等であり,MITのMulticsに似た機能も含んでおり,むしろ先行したOSであった.アプリケーションとのインターフェースはOS/360と似て非なるものであった.つまりOS/360とのインターフェースである「スーパバイザマクロ命令」「データ管理マクロ命令」と全く同じではなかった.このインターフェースを同じにすればIBMのユーザプログラムはOS7の下で動作するはずである.しかし単純にOS7で進もうという結論には至らなかった.MシリーズはIBMのSystem/370と基本的には同一ハードウェアとなるため,IBMユーザの一角に切り込みたいという考えが強くあり,ソフトウェアの完全互換を主張する意見があった.恐らく営業サイドからは強い意見があったと思われる.

結論はOS7でなくIBMのMVSを選択することになった.このためIBMから当時はPublic Domainとなっていたマイクロフィルムに入ったソースコードを入手し,シプ部の所員を中心にプログラム構成,各プログラムモジュールの機能,入出力パラメータ,使用レジスタ,制御テーブルの仕様,などの調査を開始した.(シ研)からは私の部下であった西垣通(日立を退社して明治大学から東京大学教授へ)君をOSの学習を兼ねてその調査の一員として派遣することにした.このような経緯を経て,VOS3がHITAC M-180のOSとして1975年5月に発表された.開発が終わり顧客に配布されたのは1977年4月でありIBMに遅れること約3年であった.当初,HITAC M180は最大主記憶容量が3MBであった.しかしVOS3は約768KBの主記憶を占有するため大きなメモリオーバヘッドであった.(シ研)に導入されたM180は実装メモリが1MBであり主メモリのほとんどをOSが使用する状況にあった.当時主メモリは半導体であったが実装密度がまだ低くビットコストは極めて高価であった.

富士通は最上位機としてFACOM M190(米国アムダール社の470V/6と同一)を日立と同時期に発表する.このOSはOSIV/F4であり1975年10月に出荷された.当初はバッチ処理のみであり随時,リモートバッチ(1976/2),TSS(1977/3)などを順次機能追加していった.聴くところによるとこのOSはIBMのSVSのソースコードを基にして,これを母体に多重仮想記憶に独自に機能拡張したとのことである.小さなことだが,仕様では1536の多重仮想記憶を可能にするという3の倍数となった制限があるがこの理由が私には理解できない.当時,富士通のMシリーズにおける先進性はチャネルDAT(Dynamic Address Translation)が付いているという話を聞いた.チャネルもCCWというチャネルプログラムにより動作する立派なプロセッサである.このようなIBMにないメモリの仮想化をチャネルにも拡張する技術的先進性を示していた.

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脱IBM VOS3/ES1開発
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