邪馬台国をめぐる1000年の謎を解く
「邪馬台国の全解決」 中国「正史」がすべてを解いていた (著者 孫栄健) を読む
                 元ケイアンドアイインターナショナル 代表取締役 石黒 功

”「邪馬台国の全解決」中国「正史」がすべてを解いていた” は、中国史書の専門家 孫栄健が著述した歴史書で、日本書紀の時代から1,000年を超える間 多くの日本人を悩ませてきた邪馬台国の謎について、三国志を中心に後漢書、晋書など当時の全ての史書や書籍を精緻に検証して導き出した驚愕の結論である。 私のように長年の邪馬台国フアンにとっては待望の1冊である。
本書は38年前に初版が出版され、大きな反響を呼んだようだが、その時は幾つか解けない謎が残されていて、賛否両論、半信半疑の受け止め方が多かったらしい。 今回はその時の謎を全て読み解き、決定版として出版された。私が読んでみても、全てに論理的にも、計算上も整合が取れているように思う。今後、歴史学者からも 考古学者からも厳しい精査が行われると思うが、その議論が楽しみである。
尚、私の本書の要約は邪馬台国が何処にあったか、卑弥呼の墓は何処にあるか、までであり、実はその後に、当時の政治状況(権力構造)や卑弥呼の死後の混乱の様子、 古事記への繋がり(孫栄健の推論)などが書かれているが、紙面の都合により割愛する。

(中国正史と三国志について)
中国では王朝が替わるごとに次の王朝の歴史編纂官によって正史が編纂される。史記、漢書、後漢書、三国志、晋書・・・・と続く全24史である。中国における史書 の編纂と正史への公認は国家的な大事業で、著作者とその配下の10名前後の編纂者により10数年かけて徹底的に考証、検閲され、完成する。
三国志は3世紀に魏、呉、蜀が争った三国時代の正史であるが(晋の陳寿の著作)、3世紀は日本では弥生時代の後期にあたり、鉄器による稲作農業が大きく進歩し、 静岡県の登呂遺跡のような比較的大きなムラ(農耕の集落)が発達していた。いわゆる部落国家の誕生である。この当時日本は文字を持たず、自らの手による歴史記述は 全く遺さなかった。従い魏志倭人伝は当時の日本を記録する唯一の文書である。「魏志」「倭人伝」は、三国志の全65巻(魏志30巻、蜀志15巻、呉志20巻)の うちの1巻(魏志・東夷伝 満州から朝鮮半島そして日本列島の極東アジアの人文地理を記録)のなかのさらに1項目(1985字)にすぎないが、その中で、前半 1/3が地理記事、中の1/3が風俗記事、最後の1/3が政治記事として記述されている。
紀元239年に女王卑弥呼が魏の都洛陽に朝貢(皇帝に対し貢物を献上すること)のため使者を送ったが、その答礼と外交の樹立のため中国(魏)の使節団が帯方郡 (韓国のソウル付近にあった魏の出先機関)を出発して、対馬島、壱岐島、松浦半島(佐賀)を経て、福岡に到達したことを記録している。さらにそこから邪馬台国への 方位、距離を記しているが、水行20日または水行10日、陸行1月と記されていてそれを求めるとそこは沖縄近くの海の上になる。このため邪馬台国の位置については これまで議論百出し、大きくは、福岡県から南という方位を重視して(方位論)九州のどこかとする意見と、水行10日陸行1月という距離を重視して(里程論)大和と する意見に分かれていて未だに集約していない。
孫栄健は魏志倭人伝を精緻に検証しながら読み解いてゆくのだが、それに当たって次の原理・原則を適用している。
1.中国史書には独特の「春秋の筆法」という記述原理があるが、それを魏志倭人伝に適用した。中国の正史は司馬遷(しばせん)が書いた「史記」が最初だが、司馬遷は 史記の序論の中で執筆の目的は「春秋」を継ぐことだと明言している。春秋は春秋時代の魯(ろ)国の年代記で三国志よりも800年も前に孔子が書いたと言われているが、 単なる歴史の記述には終わらず、社会や歴史を批判する精神にもとづいている。司馬遷はその精神を受け継ぎ、歴史を書き継いでゆく、と言う。
春秋の筆法とは簡単に言うと「文を規則的に矛盾させながらその奥に真意を語る」、つまり「言外の言」、「文外の文」の文章術である。政治的な事情があって史実を そのまま公表できない時に用いられる手法(筆法)で、春秋のように記事の表面には慣例や公式見解である建前を書き、そして筆法のルールに従い文を矛盾(錯え)させ、 その奥に本当の史実や著者の真意である本音を隠す。春秋の筆法の具体例としてその解説書である「春秋三伝」は11人の魯公の死亡記事に4通りの書きわけがあると 指摘している。(i)宮殿の室内で死亡。つまり安楽死(ii)場所の記述が無い。これは国内で暗殺死(iii)他国の都市で死亡。これは亡命中に病死(iv)他国で(都市 は書いていない)死亡。これは他国で暗殺。このように1行の死亡記事に表立っては書かれていない裏の史実の意が込められている。
晋は、魏の重臣の司馬懿(しばい)将軍が魏の皇帝を倒し、実権を簒奪し(宮廷クーデター)、その息子たちが建てた国であるが、陳寿は晋の王朝に仕えた史官であり、 晋王朝や司馬懿に対し婉曲な遠慮した筆使いをしなければならず、筆法を用いる必然性があった。結論として魏志「韓伝」(韓国編)と「倭人伝」(日本編)には規則的 な矛盾があり、それが中国史書に伝統的な「筆法」という文章術(レトリック)であり、孫栄健は精緻な検証の中で多くの事例を探り出している。
2.中国では軍事文書(露布 ろふ)は数字を10倍する慣例(日本と同じ大本営発表であるが、違うのは露布の場合は正確に10倍している)があったが、孫栄健は やはりその時代の書籍、文献を網羅的に調べ、その事実を探りだし、それを女王国への里数記事に適用した。
3.中国史書には「前史を継ぐ」という原則があるが、三国志の前後史関係にある「後漢書」と「晋書」の解読結果を補助仮説として「魏志倭人伝」の解釈を試みている。 尚、執筆の順番は、三国志(270年代)、後漢書(430年代)、晋書(640年代)の順であり、後漢書も晋書も三国時代の記述があるが、それらは何れも三国志を 参照(書き写し)している。

(魏志倭人伝を読み解く)
1.国名列挙と重複の謎
魏志倭人伝(以降魏志と略す)では、使訳(外交関係)の通じる国、即ち女王の治める国は30国と述べ、まず韓国から女王の国への道中の国として以下の国が挙げられ、 その戸数が記述されている。
  対海(対馬)国(1000)、一大(一支いき)国(3000)、末盧(松浦)国(4000)、伊都国(1000)、奴(な)国
 (20000)、不弥(ふみ)国(1000)、 投馬(つま)国(50000)、邪馬台国(70000)。合計すると150000戸になる。
さらにその傍らにある国の約20国を挙げているが、この中で奴国は通過してきた国と傍らの国の両方に出てきており、国名が重複している。この国名重複は倭人伝 だけではなく韓伝にも同じようにあり、東夷伝で共通していて、孫栄健は「春秋の筆法」による文字の矛盾(錯え)であり特別の意図が隠されていると読む。 (あとで出てくるが奴国は女王国であり特に注意する国である)
孫栄健は魏志を読み解くにあたり、その前後史の後漢書と晋書を補助資料として利用しているが、晋書(倭人伝)では魏時代の倭国の30国の全ての戸数を70000として いる。そこで彼は、魏時代の30国の総戸数(晋書)=70000=邪馬台国の戸数(魏志)を見つけ、魏時代の30国=邪馬台国=倭国と解釈した。また魏志の記述では 邪馬台国と女王国は使い分けられていて同一国を指すものではない。つまり従来は邪馬台国は1つの国として理解されてきたのに対し、そうではなく30国の総称で あると新しい理解を示した。そして邪馬台国はシャーマニズムの神様として神聖化された卑弥呼を王として崇拝する30国が共立した集落連合であったと思われる。 この理解は今まで解けなかった謎を解く重要な鍵である。

2.里数記事と日数記事
魏志では、帯方郡(たいほうぐん、ソウル辺り)から狗邪韓国(くや、釜山辺り)を経て、女王国へ辿った使節団のコースを以下のように記述している。そして女王国 への総里数を12000余里としている。
         
晋時代の1里は434mであり、これを使うと女王国は海のかなたにあることになる。そこで孫栄健は2つの新しい解釈を提示した。
①先ず里数記事と日数記事の矛盾についてはその2つの記事は独立していて、里数は距離を日数は所要日数を表し、直列にリンクするのではなく、並列に扱われる べきであるという。また後漢書では奴国は倭国の極南界(最南端)にあると言っている。
②次に上のコースで里数を合計しても最南端の奴までは10600里にしかならず、1400里足らない。孫栄健は魏志の中で、対馬島(南島)は1辺400里、壱岐島は1辺300里 の方形であると記述されていることに注目し、渡海のコースにそれぞれの上辺と右辺を加え(この頃は島に沿って航海する)400x2+300x2=1400里、奴まではピッタリ 12000里であると指摘している。
これらから下記の図式が得られる。
         
つまり魏志も後漢書も女王の都は倭国の中の最大の国の奴国にあり、そこは帯方郡から12000里の倭国の最南端になると言っている。
③②の解釈に立っても12000里ではやはり海のかなたになる。そこで孫栄健は当時軍事文書(露布)では良く使われていた露布の原理(数字を10倍にする)が魏志にも 使われていたと考えた(多くの露布の事例が挙げられているがここでは省略する)。そして露布の原理での計算値と実距離が比較され、以下のようにほぼ等しいこと が検証されている。
         
三国志が著述された紀元270年頃は晋が呉を平定する前で、互いに外に向け覇権争いをしていた頃で、里数を誇大させ、呉を混乱させることが目的であった。
④以上の結論として、紀元57年にも漢王朝に朝貢し、時の光武帝より「漢倭奴(かんのわのな)国王」の金印を受けたあの奴国、言い換えれば1世紀の倭国の中心国 だったグループが3世紀の女王の時代も倭国の中心国であり、そのため魏王は女王に金印・証書のほかに豪華物品を贈った。そして奴国は帯方郡から12000里(露布の 原理で1200里x434m=520km)離れた倭国の中では最南端(今の福岡市から春日市辺り)に位置する。そして奴国の中心は弥生銀座と呼ばれるほど豊富な弥生遺跡群の ある春日市の須玖(すぐ)遺跡あたりと推定される。
⑤次に不弥国はどこか?これを見つけるために孫栄健は2つの春秋の筆法(文の錯え)を指摘している。1つは、「至る」と「到る」の使い分けで、伊都国(糸島市 平原(ひらばる)遺跡周辺)だけは「到る」が使われ、その他の国は「至る」が使われている。当時の文献には、「到る」は最終到着地を、「至る」は通過する地と 記されている。つまり伊都国が使節団の最終到着地であることを示している。
もう1つは、伊都国の前までは「方位」「距離」「地名」の順に記されているが、伊都国の後からは「方位」「地名」「距離」の順番で、前者は直線式に、後者は 放射式に進むと解釈する。(この解釈は九州論者であった東大教授の榎一雄氏の説である)
このように読むと、 の位置関係になる。
孫栄健の解釈は、不弥国は使節団の全行程の水行の最終地で、伊都国近郊の津(港)の機能を果たしていた所で、伊都国から100里(露布の原理で10里=4km)の所に ある周船寺あたり(現在は埋め立てられて陸地になっているが当時は古代糸島水道の東端にあった)と推測している。そして使節団のコースは、不弥国の港に上陸し、 そこから陸行で伊都国に入ったとしている。伊都国は実際の外国業務を常治していたので、使節団は卑弥呼の都の奴国ではなく、伊都国に到達し、そこに常駐した、と 解釈した。これは、使節団が卑弥呼に面接した形跡がなく、金印・証書や贈答品を伊都国でその統治者に渡したことからも妥当な解釈としている。
⑤最後に南投馬水行20日と南邪馬台国水行10日陸行1月をどう読むか。孫栄健は、投馬は水行換算で南に20日、邪馬台国は南に水行換算で10日、陸行換算で1月 と読み、当時の資料から水行1日=120里、陸行1日=40里と計算した。(その根拠を幾つか挙げているがここでは省略する)
邪馬台国の場合は南に水行10日=1200里または陸行1月=1200里であり、里数記事と一致する。一方投馬は水行20日=2400里で鹿児島辺りになる。 また魏志には女王国のさらに外に男王「卑弥弓呼(ひみここ)」の治める狗奴国があったと記述する。その位置は、魏志も後漢書も、女王国の東、海を渡る千余里 (本州のどこか)と書かれている。このように3世紀の日本には、邪馬台国、投馬国、狗奴国の3つのブロック(勢力圏)が存在していたことになる。

3.女王の墓はどこにある
先ず女王の住まいはどこか?孫栄健の詳細な説明は省略するが、それは伊都国の東にそびえる高祖(たかす)山(標高416 m)にあったとしている。この山は シャーマン卑弥呼の宮殿の地として相応しく、大和朝廷の時にその命により吉備真備が対新羅戦のためここに城を築いたように、宮殿所在地としての地政的、軍事的な 要地として絶好の場所である。
次に女王の墓はどこか?魏志には、魏使が女王の墓を見たこと、魏使は伊都国に常駐していたことを記しているので、墓は伊都国にあったと推測される。そこには有名な 平原(ひらばる)弥生遺跡があり、そこが卑弥呼の墓であると孫栄健は指摘している。平原弥生遺跡(東西2つの遺跡がある)の西のものは中央の方形部は東西17m、 南北12mで、魏志で書かれている径百余歩(145m)に露布の原理を当てはめると14~5mでほぼ近い。その中央に木棺が据えられていて、その内外には太刀、 白銅鏡やガラス勾玉、コハク丸玉、めのう管玉など夥しい副葬品が出ており、鏡、玉、剣の3種の神器と同じものが見つかる。またネックレスやプレスレットなどの アクセサリーが多いことから葬られているのは女性と考えられている。魏志は殉葬するもの奴婢百余人(露布の原理で10数人)と述べているが、東のものの周囲からは 寝た状態で16体の殉葬者が推察されると言う。日本国内の弥生遺跡では平原遺跡以外で殉葬者のある遺跡は1つも発見されていない。以上の傍証から平原遺跡が卑弥呼の 墓と孫栄健は結論付けている。
                                                      以上