Episode Ⅰ 世界と戦ったアテネオリンピックの科学の力!

1. 速度変動図
EpisodeⅠを明確に理解してもらうためにまず速度変動図を説明する。 泳ぎを科学的に考えるためには、動作や進み方を数値でとらえる必要がある。  例えば、これから世界と戦おうとしているA選手を世界トップのB選手に比較する場合、ただ単にレースタイムで比べるのでは、何が違うのでそんなに タイム差が出ているかを知らなくてはならない。 ただ速い遅いというのだけではなく、どんな動作で加速し、どんな動きでブレーキがかかってしまうか、 それが選手によってどう違っているかを知ることが必要である。 そのため、選手の進行速度が刻々とどう変化しているかを認識するための手段が必要で ある。 選手の泳ぎを定量化する手段として「速度変動図」を提案した。 これが水泳ニッポン復活の決定版となったと考えている。 速度変動図とは、 1ストローク進行を0.1秒ごとに区切ってその瞬間の速度を計測し、横軸が時刻、縦軸に速度をとった座標にプロットし、それを繋いで折れ線グラフに したものである。 どの動作の瞬間にどのくらいの速度になったかが判別できる。 図1は、北島選手が初めて世界記録を出した時のレースの25m付近 の1ストロークの速度変動図である。

下段の映像は、そのときの彼の連像映像であり、○番号はグラフに対応している。 グラフと映像を対比してみると、1ストロークの中で動作と進行速度 の変動の状況が良くわかる。 グラフの①が1ストロークの中で最も進行速度が遅くなっているところであり、それは下段映像から足引きが最高に達した ところであることがわかる。 以下同様に③ではキックで加速されて速度が2.0/秒となっている。 これは平泳ぎキックでは世界最高水準である。➅では 「手のかき」のため腕を広げて水流が肩に直接当たる抵抗のため、すこし速度が落ちている状況がよくわかる。 ⑨は「手のかき」で最高速度2.57/秒に なっている。 これも世界最高水準である。 ⑪の足ひき最大で再び最も進行速度が遅くなった。 このように動作と加速・減速状況が明確に判読できる。  我ながら素晴らしい手法であると感心する。

2.ストロークが基本
岩崎恭子選手がバルセロナオリンピックで金メダルに輝いた女子200m平泳ぎでは97ストロークで泳いだ。北島康介選手のアテネでの彼にとって初め ての金メダル種目の男子100m平泳ぎでは39ストロークであった。 競泳競技では1ストロークを基本としてそれを繰り返して進む。結局、速い遅い は1つ1つのストロークの速度や進み方の集積で決まることになる。 そういった意味で基本の1ストロークが極めて重要になる。 図2は、ストローク の積み重ねについて考えたものである。

上段の2つのちょっと長さの違うアレイを比べるとその差は僅かなものである。 しかし下段のように6つ並べて重ねてみると大きな差になってしまう。  バルセロナでは岩崎恭子選手が97回、アテネでは北島選手が40回ストロークを重ねて泳ぎ切った。 多分、金藤選手もリオの女子200m平泳ぎ種目 で80~数回泳いで金メダルに輝いたものと思う。
つまり、戦いは泳ぎ込んで体力や力強さを訓練するだけでなく、「1ストロークをどう組み立てて速さを確保するか」を戦略的に検討し、訓練でそれを 実現することが極めて重要なのである。北島選手のアテネでの戦いを見てみよう。

3.アテネへの北島戦略
当時、北島選手は、5名の専門家集団がチームを組んで強化を支援していた。チーム北島と呼ばれてオリンピック前から注目されていた。専任コーチの H氏、技術を担当した筆者、レース分析担当、筋力トレーニング担当、マッサージ担当の5者であった。 アテネオリンピックのほぼ1年前の2003年9月、 チームでの戦略会議が行われた。 白熱して大声を出すほどの熱中した雰囲気になった。 図3は、その時の会議の進行を記録したものである。  会議のテーマは「どうやってアテネを戦うか」であった。

北島選手の思いは「金メダルをとる」、「再び世界記録を出す」であった。 当然だと思った。 状況の分析をした。 当時の100m種目の世界記録は、 本人自身が出した59秒78であったが、ライバルのアメリカのハンセン選手や他数名の選手が1分を切っている状態であった。 決勝での戦いは、多分 59秒台の前半だと思われた。 世界の大きな戦いでは突然すごいタイムを出す選手が出没することが度々起こっているが。想定を59秒3~5とした。  最終的に戦いの戦略を、「100mではスピードをつけて勝つ」。 「200mもその配分をうまくやって勝つ」となった。 実現のための戦略は、 「かき」の強化ということになった。 強化チームで事前に戦略をたてて望むというケースは日本でもあまりないことだと思う。 (結果的に、後日 北島康介選手のアテネでの成果を踏まえて、このチーム全員で2,004年「秩父宮記念スポーツ医科学功労賞」を受賞することになった。)

  4)戦略的訓練
「かき」の強化は極めて戦略的に行われた。 図1の速度変動図の「かき」の部分を取り出して表示したものが図4である。 ⑨の鋭い「かき」動作で 最高速度が2.57m/秒と世界最高水準に達した直後、⑩では、1.88m/秒と落ちでいる。 0.1秒間計測なので、僅か0.1秒後には0.69m/秒も速度が 落ちているのである。 これは、今の腕力で精一杯反動的に「かき」動作が行っているため、「かき」終了時が反動動作終了時になって急に加速がなく なってしまっていることを物語っている。 反動的に「かき」を強く行うのは腕力がない場合の高度なテクニックである。 康介選手の才能がわかる データである。 しかしもし、腕力が十分にあって強い「かき」が出来る場合は、反動で最高速度になっているわけではないので、「かき」動作で徐々に 速度が上がっていって最高速度に達しても、動作が急に終了とはならず、しばらくは継続的に加速状態が続き徐々に速度が落ちていく状況になる。  図5のように、もしこれで⑩の速度を0.3m/秒くらい上げることができたら、この0.1秒間に3cm多く進むことになる。 彼は100mレース では約40ストロークなので、3cm×40=1m20cmとなる。 つまり、ゴール地点では1.2m前に進んでいることになる。 彼の世界記録の 時の平均泳速は1.67m/秒なので、タイム換算では0.71秒短縮となる。 彼の出した世界記録が59秒78なので、腕力強化で「かき」が十分に 強く行われたら、59秒07という驚異的な世界記録樹立が実現できるであろう。こ れが会議の結論的戦略であった。

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当然オリンピック前の冬の練習では、腕力の強化作戦が密かに精力的に行われたのはいうまでもない。 アテネオリンピックの4か月前、国内の オリンピック予選会を兼ねた日本選手権大会が行われた、図6はその時の男子100m平泳ぎ決勝の計測データである。

この時彼は国内大会なので圧倒的に強さを誇り、正に独泳状態で勝利した。 予測していたので、彼は世界記録を狙うより訓練の仕上がり状態に注意を して泳いだようである。 この時の速度変動図をわかりやすいように○番号を図1に揃えて表示した。 ⑩のあたりの野戦略的な狙いが見事に実現されて いた。 すごいことである。 これが天才といわれる北島選手の才能であり、それを実現させたHコーチの腕であった。 この時点で、選手とコーチ、 我々チーム一同はアテネでの金メダルを確信したものであった。

5)金メダルへの道!
「さぁ、アテネでの戦いだ!」金メダルの戦いも戦略的に行われた。 今までの経験で、現地では日本選手のレース映像は手に入れることが困難である。  当然のことだが、中継放送は自国選手のレースしか行われない。 日本やアメリカ等の他国選手の映像は、決勝に自国選手が残っている場合は放送されるが、 それでも自国選手が中心となる。 現地テレビでは日本選手の映像が流れることがほとんど皆無である。 日本選手の映像を手に入れるのは日本選手を 中心にした日本国内での中継放送での映像がもっとも簡単なのである。 そこで図7のような体制が取られた。

大切なのは、筆者のデータの解析技術が放送映像でも速度変動図を作成できるほどに向上していたことである。 アテネでのオリンピックの戦いの状況は、 実際のメールの交信記録を見るとよくわかる。 以下、更新の記録を時系列的に並べてみた。 アテネでの戦いの様子が読み取れるであろうか。なお、 そのときの速度変動図は省略する。文章から状況を推察して欲しい。

そして、運命の8月15日金メダルへのスタートである。 まず予選が行われた。直後の解析結果を知らせるメールである。

翌2004年8月16日、ニッポン水泳界にとって歴史歴に残る100m平泳ぎの決勝が行われた。 そして北島康介選手が優勝した。 ・・・ あぁ、 運命の金メダル!「なんという感激!なんという嬉しさ!」・・・・ 残念ながらタイムは世界記録ではなかった。 1分台の平凡なタイム。  アテネの水泳会場は小高い丘の上。10m以上の強風の中のレース。平泳ぎは正面に向かって水面すれすれの呼吸をする。 「水を飲んだらおしまいだ!」 レース出場選手全体が平凡なタイムであった。 それでも金メダル!価値ある金メダル!

図8は、そのときの決勝の速度変動図である。ご参考に! 放送映像の解析なので、速度の測定分解精度が0.1m/秒になってしまったが、状況判断には 差し支えがない。

コーチから喜びの声が淡白に来た。まだ200mもある。緊張が続いているのだろう。

そして8月18日、200mの戦いです。予選・準決勝が行われました。 データからみて康介選手の勝利は間違いないと確信していました。 準決勝後 のメールです。

準決勝後、ハンセンが3番目で、2番目は予測もしなかったハンガリーの新鋭ギョルタ選手だった。 今まで名前も知らなかった選手だった。 早速、 解析を行った。 泳ぎは世界のトップ水準であったが、康介選手に勝る技術の持ち主ではなかった。(その後彼は成長し、8年後のロンドンオリンピック の200m種目で金メダルに輝いた。) この解析で、まだ勝負前ではあるが、北島康介選手の金メダルを確信することになった。

そして翌8月19日、康介選手の2つ目の金メダルが誕生した。 前日からの予想もあって、「やっぱり勝ったな。」と大きな感動はなかった。 たまたま テレビ観戦している筆者を収録中のテレビ局のディレクターが、「もっと大げさに喜んでくださいよ。」と催促されたのを記憶している。 世界記録は 出なかったが、2つの金メダルという大きな成果を上げたアテネのオリンピック。最後のメールを打ち終わって大きな安堵のため息が出た。

嬉しい返事が帰ってきた。

アテネと東京で戦ったオリンピック。その状況をご理解いただけだろうか。 この戦いでわかったことが2つあると思う。 1つは、スポーツの戦いに 科学の力が大きく貢献するということである。 戦いの状況をみてわかったと思う。 もう1つは、オリンピックの金メダルという栄光は、選手本人の 絶大な努力とそれを直接指導したコーチの力で実現したことは言うまでもないが、その周辺の携わった多くの方々の情熱と努力の集大成があったという ことである。 ナショナルチームの監督、水泳連盟の方々、練習場の維持スタッフ、チーム北島のメンバー、その家族や友人などなど、多くの関係者の 情熱が金メダルを生んだのである。 後に続いた栄光にも1つ1つに感動のエピソードがあるのだ。

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 Episode II 「思う」ことから始まる!

1.北島康介選手の驚異的な成長
表1は、北島康介選手の泳ぎの成長の記録である。 選手は体力や技術力の成長とともに記録が向上する。 そしてその成長が終わった段階で記録の向上も 止まる。 その時これが生涯ベストタイムということになる。 北島選手をみるとその記録向上が世界記録までになった。 並みの選手ではないことがよく わかると思う。 これだけの才能に恵まれて世界記録を達成するまでの背景には、彼の強烈な世界記録への情熱があった。 世界記録への強い憧れ。彼の その「思い」が前人未到の偉業を実現することになった。

2.「進行停止問題」を見事克服!
平泳ぎの技術でもっとも重要なのは「進行停止問題」と解説した。 シリーズの第2回投稿の1.2)(1)進行停止問題 をご参照いただきたい。 彼の 驚異的タイム向上を振り返ってみる。
1)表1.の①ステップ
 私が北島康介選手と出会ったのは1997年9月のことであった。 私のコンピュータを使った映像解析による泳ぎの分析手法が水泳界に認められてきた頃で ある。 当時彼は中学2年生でTスイミングクラブに所属していた。 8月には1分5秒54というタイムで全国中学水泳大会の男子100m平泳ぎで優勝した そうであった。 その直後なのでクラブ内では大変な注目をあびていた。 担当のコーチ(ナショナルチームの強化仲間で親しかった)から彼を技術的に 評価して欲しいと申し入れがあったので、出向いて初めて北島選手と会うことになった。 彼は仲間とは明るく剽軽であったが、我々には寡黙な少年であった。  彼の泳ぎを水中撮影しコンピュータで分析した。 全中で優勝しクラブ内で騒がれているとは言っても、1分5秒台というタイムは世界標準(当時の世界記録 は1分0秒台)からは程遠い状況であった。 世界を目指しているわれわれにとって三流タイムにしか見えなかった。 調べてみると、図1の上図はその ときの「足引き」映像である。 キックのための足引きで、お尻とかかとの間隔が21cmと極めて深いことがわかった。 そのため進行停止時間は0.16秒 と長い状況であった。 世界のトップ水準の停止時間は0.1秒を切っている。 当時の世界記録保持者は0.07秒で、康介選手との差が0.09秒もあった。  100mで約50ストロークするレースでの総停止時間は、世界記録保持者は50×0.07秒=3.5秒となるが、康介選手は50×0.16秒=8.0秒と なり、4.5秒もの差がある。 これではとても世界とは戦えない。 この時点での私の判断は、「こんなに深く足を引かなければ強いキックができないという ことは、多分平泳ぎのセンスがない。 まだ中学生なので時間がある。 自分にあった種目に転向したほうがいい。」であった。 「全中では勝ったけれど君の 平泳ぎ技術は大したことがないと思う。 他の種目に転向したらどう。」と忠告をした。 今考えると、世界を驚かせた平泳ぎのこの大選手に、恥ずかしくもなく こんなことを言ってしまった未熟さに大反省である。 しかしその後、彼に平泳ぎの進行停止問題を説明し、「もし平泳ぎ種目を続けたいのなら、足引きを浅く して強いキックができるように訓練するしかない。」と原理と対策を解説した(「進行停止問題」の対応策2、「浅い足引き」)。 彼は黙って真剣に聞いて いた。

翌1998年彼は高校生になっていた。 そして、その夏初めて出場した高校総体(インターハイ)の男子100m平泳ぎで、1分3秒00という日本歴代3位と いう大記録で優勝した。 9月になって予想通りTスイミングの例の担当コーチから電話があった。「康介選手がなぜこんなに凄いタイムを出したか調べて欲しい。」 とのことであった。 再び彼の泳ぎを水中撮影しコンピュータで分析した。 その結果、図1の下図のように、足引きが浅くなっていたのである。 測ってみると 27cmであった。 浅く引いても強いキックをしている。 足引きが浅くなったので、進行停止時間の計測値は0.12秒と短くなっていた。 この時のレース では、前半27ストロークm後半は29ストロークの合計56ストロークというピッチ泳法であった。 その前年との停止時間差は0.16-0.12=0.04秒 なので、短縮時間は  0.04×56 =2.24秒となった。 前年の1分5秒58とこの時の1分3秒00とのタイム差は2,58秒なので、タイムアップは、 ほぼ停止時間短縮によるものであった。 彼は才能がないのではなく「足引き」の重要性を知らなかったのである。 後にA新聞の記者のインタビューで、「私に 言われて自分でしっかり練習した。」と語ったそうである。 コーチはそのことを知らなかったようである。 私はこの時点で、「おっ!これは凄い選手になる かも。」と感じたのを覚えている。 テクニックの内容をじっくり聞いて、それを自分でものにしてしまうという才能。後の大活躍の片鱗が見えたできごとであった。

2)表1の②のステップ
表1に見られるように、その翌1999年、高校2年生になった北島選手は日本選手権の100m平泳ぎ種目で第3位になった。 タイムは、技術の向上があったわけ ではないので1分2秒73と0.27秒伸びただけであったが、とにかく全日本の表彰台に上がることができた。 でも、彼が悔しかったのは自分より速い選手が2人 もいたことである。 1位は当時の日本記録(1分1秒73)保持者の林亨(アキラ、大分)、2位は福岡の今井選手であった。 なんとしても日本一になりたい。  コーチと北島選手の情熱が燃え上がった。 表彰式の後プールサイドで、どうするか3人で話し合ったのが記憶に残っている。 真剣に「どうしても1位になり たい」。 私は、「進行停止問題対応策4のストロークを少なくする。」を提案した。 シリーズの第2回投稿の1.2)(2)一直線技術 をご参照いただき たい。 対応策4は原理的に速くなるのだが、ストロークの少ない泳ぎはゆっくり泳いでいるように見え、選手にとって採用するには抵抗感が大きい。 しかし、 彼らは例によって寡黙的に「わかった。」との一言であった。

平泳ぎのタイムアップのため総停止時間を減らすには、1ストロークあたりの停止時間を減らすことで実現できるのだが、1ストロークの停止時間が多少長くても、 ストロークを減らすことが出来れば、停止時間は減らせることになる。 どうしても停止時間短くできない場合のハンデキャップは解消できるというのが対応策4 であった。 おさらいに図2を見てほしい。 図の左側に示す平泳ぎの標準的1ストロークのサイクルは、足ひき(リカバリー)、キック、一瞬の一直線姿勢(伸び)、 かき、そして足ひきへ戻るというものである。 一直線姿勢は通称「伸び」と言われて、抵抗のない姿勢で惰性進行するという極めて重要な部分である。 一瞬でも 一直線姿勢取ることが重要であると言われている。 図2の右側の流れのように、惰性進行部分を長くすると1ストロークでの進行距離を長くできる。 長くなれば レース全体のストローク数を減らすことができる。 これが我々が提案し、北島康介選手が実現した平泳ぎでのストローク数削減の根幹テクニックなのである。  水中で進むこときは大きな水の抵抗を受けている。 惰性進行時に急に速度が落ちてしまっては逆効果になってしまう。 この局面での姿勢の取り方はきわめて重要 となる。 抵抗の少ない惰性進行姿勢をストリームライン姿勢という。 いわゆる流線型である。姿勢の取り方が十分であればかなりのあいだ進行速度を持続する ことがわかっている。 上手に姿勢を取れないと、水からの抵抗のためすぐ進行速度が落ちてしまう。 一度落ちてしまったら、キックや「かき」で挽回するのは 困難である。 ストロークを減らしてタイムアップを計るなどとはとんでもない話になる。
1年後の日本選手権、男子100m平泳ぎ決勝レースの直前、私は担当の Hコーチと2人で観客席にいた。「どう!その後の調子は?」との私の語りかけに、Hコーチは「まぁ、レースをご覧になってください!」と余裕の笑みを浮かべて 答えた。 Hコーチはプールサイドのコーチ席に移動し、一人になってレースが始まった。 前半から後半にかけて観客席から、静かなどよめきが起こった。  北島選手が、ゆっくりと見える大きなストロークで、他を圧倒的に引きはなし、1分1秒31という画期的な日本新記録でゴールしたのである。 観客性のどよめき はしばらく収まらなかった。 もちろん私は観客席でレースを見ながらストローク数を数えていた。 なんと行き(前半)21ストローク、帰り(後半)23スト ロークで、合計44へとなっていた。 今まで56ストロークもかかっていたのが44へと。驚愕であった。  1999年の日本選手権男子100m平泳ぎの表彰式 のあとでの寡黙な選手とコーチは、その後の1年間の努力で、結果的に世界を震撼させる泳ぎを実現したのだった。

図3は、その1年間の北島選手の一直線技術の進歩である。 彼とコーチがどうやって訓練したかは分からないが、2000年の時の映像は、彼の姿勢が見事な一直線に なっているのがわかる。 1999年の100mレースでは、行き27ストローク、帰り29ストロークの合計が56であった。 2000年には、前半21ストローク、 後半23ストローク、合計44へとなった。 総ストローク数差は12ストロークとなり、彼の停止時間は0.12秒なので総停止時間の短縮は0.12×12 = 1.44秒となった。 1999年のタイムが1分2秒73、2000年が1分1秒31なので、この1年間のタイムアップは1秒42となる。 実にタイムアップが一直線 技術習熟で実現したのであった。 私はこの時点で、「こいつら(彼とコーチの意味)タダ者ではないな!・・・まだ彼の現在の停止時間は0.12秒、世界のトップ水準 は0.07秒前後。0.05秒の短縮の可能性がある。 それが実現すると44ストローク×0.05は2.2秒。現在タイム1分1秒31から2.2秒を引くと59秒1になる。  凄いタイムになる。59秒9の世界記録を0.8秒も上回る。 なんということだ、なんということ、なんと・・・。」と一人で呟いていた。 喜びより大きな期待で 興奮しきっていたのだった。

2.「思う」ことが世界記録を生む!
1)手応えを感じる!
2000年の日本選手権で日本記録を樹立した北島康介選手。 一見ゆっくりとしたその泳ぎが実は速い。 誰もがこの時誕生した若い選手の才能に驚いたものだった。  実は、この大会はその年に行われるシドニーオリンピックの選手選考会であった。 水泳のオリンピック代表選考は一発勝負である。この大会の各種目の上位2名が 選考される。 高校2年生だった北島選手は晴れて日本代表となった。 オリンピックに出られるのだ。多くの選ばれた選手が喜びの声を語っていた。 しかし、彼の 表情は違っていた。 試合が終わって片付けをしているとき、彼とコーチが来た。2人の顔つきは違っていた。・・・「今日のレースで手応えを感じました。世界記録 を狙います!」・・・。 そのときの北島選手の目は、正に世界記録という獲物を狙う百獣の王ライオンの目つきだであった。 世界記録が目標になったとき、 オリンピック出場は単にステップにしかなかった。 生まれて初めてのオリンピック出場に浮かれて喜ぶ表情はなかった。 その日の日本記録は1分1秒31、当時に 世界記録は59秒95、実に1.36秒もの差である。 レース距離差に換算すると2m30cmの差になる。 身体1つ以上の差。極限のレースでのこの差。遥かな 頂上を阻む大きな壁に思えた。
2)「思う」ことから始まる!
普通の選手は、オリンピック出場が決まると大喜びである。 しかし彼の「思い」は違った。 世界記録という人類未踏の壁を狙うという強い「思い」が湧き起って きたのであった。 正に天才的才能を持つ選手の特別の発想であると思う。 今考えると、彼はゴールして自分の出した記録を見て、そのとき私が観客席で受けていた 停止問題を同じように考えていたのだと思う。 そして世界記録の手応えを強く感じたのであろう。 彼はゴールしたその時、勝利を挙げたライオンにように雄叫びを 上げた。 観客席もテレビ観戦の方々も圧倒されてしまった。 しかしおそらく勝利をあげたことよりも、世界記録への挑戦の雄叫びであったのだと思う。
3)真剣な「思い」が多くの人を引きずり込んだ!
このレースが終わって、世界記録への真剣な「思い」をもった北島選手。 本人も支援してくれる多くの周辺の方々の行動パターンが大きく変わった。 北島選手は、 多くの場で「世界記録を出す」という真剣な「思い」を打ち明けたのであった。 レースでのあのゆっくりとした泳ぎでの大幅な日本記録の突破。 「北島選手は 天才である」との評価が定着したのはいうまでもない。 マスコミも騒いでいた。 その中でのこの発言は多くの人の心を打った。「あの天才がマジに世界記録を狙う。  もしかしたら実現するのでは?」と彼の真剣な「思い」が人々を引きずり込んでいった。 筆者を含めて、専任コーチ、筋力トレーニングコーチ、マッサージ担当者、 合宿の食事担当のオバさん、スイミングの仲間、ナショナルチームの総監督、水泳連盟のお偉いさんの方々などと。・・・「天才が本気で世界記録を狙う。オレ達も 手を抜くわけにはいかない。」となって行った。・・・
4)康介選手の泳ぎを創る!
それから数ヶ月経ったある日、総監督から飲もうとおさそい電話があった。 大塚の行きつけの飲み屋に行ってみると専任のHコーチも一緒だった。 ジョッキが来て 「さぁ乾杯!」というとき、監督が「飲んで酔う前に言っておきたいことがある。」とジョッキをおいて真剣な表情になった。 「君たちはスロードノフ(当時の 世界記録保持者:ロシア)の解析を行っているようだが、すぐやめて欲しい。 スロードノフの技術がわかってその通りやってもスロードノフのレベルを超えてしまう わけではない。 泳ぐのは康介だ。康介独自の泳ぎを創り出すのがもっとも重要なのだ。」
・・・監督のこの言葉は私に衝撃を与えた。 「そうだ!そうなのだ!泳ぐのは康介なのだ!何を考えていたのだろう。 孝介の泳ぎを創る!こちらには進行停止問題 がある。 世界はこれだけ整理して考えていない。 停止問題対策で戦うのだ!」・・・北島選手の「思い」に引きずられた多くの人々。 私もその一人。  その後足引き深さが31cmになって進行停止時間は0.07秒になった。 天才少年が着実に問題をクリアーして大きく進歩していた。 もう我々は世界記録は確実 と考えていた。
2008年8月のパースでの世界選手権、59秒71の世界記録の誕生である。 前人未到の記録。世界をあっと驚かせた「ゆっくり泳ぎでの世界記録」だった。 世界の 王者北島康介選手の誕生であった。
3.北島康介選手に学んだこと!
天才的な北島少年の登場で、われわれは 「思うということですべてがはじまる」ということを学ぶことになった。 もし彼が、2000年の日本選手権で、シドニー オリンピックの出場が決まった時、普通の選手がオリンピックの出られることに大喜びをしていた時、世界記録への「思い」を胸にしていなかったら、おそらく世界に 君臨する北島選手は誕生しなかったと考える。 天才的な少年の真剣で熱い「思い」とそれにまい進する姿に、多くの人々が引きずられていくことになった。 そして、 天才の真剣な努力と、科学の力と、多くの人々の力の結集で大記録と大選手が生まれたのであった。
「思う」ことから始まる。思わなければ始まらない。 「思う」こと。本気で「思う」ことが人生を創るのではないだろうか。 今考えると、この少年から人生の重大 な1つの鉄則を教えられたような気がする。

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 Episode III 」「金メダルの涙」

1.金メダリスト最年少記録
君はオリンピックの全種目の金メダリストの最年少記録を知っているだろうか。 100年以上続いているオリンピックで、最年少の金メダリストは日本の選手である。  その名は岩崎恭子選手。 今から25年前のバルセロナオリンピックで、岩崎選手は女子200m平泳ぎで見事に金メダルに輝いた。 その時彼女は2週間前に14歳 の誕生日を迎えたばかりであった。 沼津の中学2年生の彼女がなんとオリンピックの舞台で堂々と金メダルを獲得したのであった。 レースの2位は中国のリー選手、 3位はアメリカのノール選手、両選手とも身長は175cm以上。 表彰式では148cmの岩崎選手が、両側に大人の女性に囲まれた子供のように見えた。  テレビの中継画面の強烈な印象が今でも頭の中に残っている。 中学2年生のこの快挙に日本中は大騒ぎであった。 特に水泳界への刺激は大きかった。 この オリンピックでは競泳の獲得メダルが彼女の金メダル1個だけであったが、それまで陰口で「出ると負け」という日本水泳界がこれで大きく変遷することになった。  今はご存知のように毎回複数のメダルが誕生するような状況である。 北島選手のように2種目金メダルという凄い事態も生じるようになっている。

2.当時の最先端平泳ぎ
 随分昔のことだがこの時の決勝レースを振り返ってみよう。 彼女の優勝タイムは2分26秒65であった。 2位のリー選手が2分26秒71、3位のノール選手 が2分26秒72であった。 岩崎選手がかろうじて勝利したが、2位と3位は0.01秒差、1位から3位までが0.07秒差という激烈なデットヒートレースで あった。 当時の世界記録はノール選手の2分25秒台であったと思う。 下馬評ではノール選手が1位、リー選手が2位、岩崎選手は注目もされていなかった。  私の周辺に当時の記録がほとんど残っていないので、私とコーチの水野氏の記憶で150mのターン時の状況を再現すると、一番で折り返したのがノール選手、100分 の1秒差でその隣で岩崎選手が折り返し、リー選手は1秒近い遅れの折り返しだった。 その後の50mで小さな14歳の岩崎選手がトップに立ってゴールした。  史上最年少金メダリストの誕生であった。 いったいこの50mでどんなことが起こったのであろうか。 実は、その後北島選手が確立した近代平泳ぎの技術を、 あの小さな岩崎選手がやっていたと推察されるのである。

残っているコーチの水野氏のメモを表1にした。 バルセロナオリンピック女子200m平泳ぎ決勝での岩崎選手のストローク数とラップタイムである。 スタートから 50m折り返しのストローク数は21であった。 当時14歳になり立てで身長148cmしかなかった彼女のスタートはひ弱で、飛び込んで1かき1蹴りで浮上したのは 9mあたりであった。 ということは、その後第一ターンまでの泳ぎは41mとなり、1ストロークは195cm進んだことになる。 当時の平泳ぎは、好タイムを目指 して力強くピッチを上げて泳ぐというのが流行していた。 女子種目ではスタートから第1ターンターンまでは25ストローク以上で、1ストロークで170cmも進めば 長い方であった。 しかし、彼女の泳ぎは195cmも進んだのである。 長いストロークであった。 ピッチが遅いので彼女がゆっくり泳いでいるように見えていたの だが、50mターンを34秒台で折り返していた。 当時としてはとても考えられないことであった。
「シリーズ1.1)(1)進行停止問題」で解説した先端平泳ぎ技術での進行停止問題の対応策4ではストロークを長くしてタイムアップを狙うという手段を解説した。  対応策4の先端平泳ぎ技術は、1996年のアトランタオリンピックで南アフリカのヘインズ選手が行って金メダルに輝いた技術をきっかけに研究が始まった。  その原理が判明したのは2000年頃であった。 そして2004年のアテネオリンピック前後に北島選手によってその技術は確立された。今考えると「進行停止問題」 対応が平泳ぎの先端技術として、その全貌が分かるまでに10年以上かかったことになる。 バルセロナオリンピックは1992年である。北島選手のアテネオリンピック の勝利の12年も前に、小さくてひ弱に見えたあの少女が現代平泳ぎの先端と思える技術で泳いていたのだった。 14歳と2週間の少女が手にしたオリンピック金メダル、 その舞台裏にはこんな技術的な事実があった。

3.岩崎選手との出会い
私が岩崎選手と出会ったのは1991年10月の静岡県営プールでのオリンピック候補選手合宿であった。 当時日本水泳連盟は、オリンピック前年の日本選手権大会 で各種目上位2位以上の選手を候補選手に指定して強化合宿を行っていた。 その年の日本選手権は6月に行われた。 私が水泳の解析を始めて1年目であった。  その大会の女子200m平泳ぎ種目になんと12歳の少女が2位に入ってオリンピック候補選手になったのである。 岩崎恭子選手の登場である。 彼女の誕生日は 7月下旬なのでその時は12歳の中学1年生であった。 ストロークを長くして泳ぐことを水泳界では「大きな泳ぎ」という。 試合でスタンドから彼女の泳ぎを初めて 見たとき、私は「おぅ、なんと大きな泳ぎなのだろう!」と感心した。
その年10月の強化合宿が行われた。 この合宿の趣旨は選手と所属コーチとが充実して練習出来る会場を提供するということで、参加は自由、すべて自主練習という粋な ものであった。 その合宿に岩崎恭子選手とコーチの水野隆一郎氏が参加したのだった。 私は2人と初めて会った。 その時は13歳、日本の代表候補の実力選手の岩崎選手、 どんな大選手かと思っていたら、彼女は小柄な可愛らしい少女だった。 どこに筋肉があるのだろうという感じの小さなほっそりとした少女。 「えっ!なんで・・・・」 と思ったのを覚えている。 水中カメラをいれて、彼女の泳ぎを撮影した。 水に入った彼女は実に大きな泳ぎの大選手に変身した。 泳ぎに圧倒されてしまったのを 今でも記憶している。 映像を見て、「こんなにゆっくり泳いでいるのになんでこんなにすごく進むのだ!」と日本選手権大会の時以来再び大きな驚きを覚えると同時に、 水泳テクニックは奥が深いと改めて感心した。

4.「水をくぐるような泳ぎ」(始めて明かす金メダルの秘密)!

水野コーチの話をしっかり聞いた。 「平泳ぎは水の抵抗を大きく受けるので、水をくぐり抜けるように泳ぐといい。」とのことであった。 「水をくぐるような泳ぎ」。 「えっ!えっ!えっ!」と、まだ水泳の技術解析を始めて1年目の右も左もわからない自分の技量の未熟さを痛感する言葉であった。
君は覚えているだろうか。「シリーズ1.1)(1)進行停止問題」で解説した先端平泳ぎ技術の対応策4では、ストロークを長くしてタイムアップをはかると解説した。  そのときの図8で、1ストローク動作の中でキックの後の1直線姿勢をもう1つ追加して惰性進行部分を増やしてストロークを長くするということだった。 図1の左側が そのときのものである。

岩崎選手と水野コーチの金メダル泳ぎは「水をくぐる」泳ぎであった。よく考えると、「くぐる動作」は必ずくぐっている最中が惰性進行状態になる。 図1の右側の ように、キック後平泳ぎ原則の1直線姿勢から、惰性進行で「水をくぐって」進む。 つまり左側と比べてみて、「1直線姿勢を追加」と「水をくぐる」とは結果的に おなじことになると言える。 言葉の表現が違うだけである。 やはり、対応策4の一環と言えるのである。
アトランタオリンピックのヘインズ選手(南アメリカ)の金メダル泳ぎを参考に10年かけて掴んだ「進行停止問題」対応策4の技術(直近ではリオデジャネイロ オリンピックで金藤選手がこの泳ぎで金メダル獲得したという正に現代平泳ぎの先端技術)を、今から25年も前のこの2人が堂々と実行していたのである。  「くぐる泳ぎ」を考えた水野氏、それを見事に実現した小さな岩崎選手、彼らは平泳ぎの本質を直感で捉えて金メダルを実現したことになる。 凄いことではない だろうか。 今にして正に脱帽である。

5.Episode Ⅲ
感動的な金メダルの栄光からもう25年が過ぎようとしている。

5.1 少女岩崎恭子の葛藤
オリンピック金メダルのおかげで、日本中の有名人になった中学2年生の岩崎恭子選手は、学校でもクラスでもスイミングクラブでも、社会でも、栄光の人となった。 友達も目上の人も近づく人は皆一目おいて話しかけてくるようになった。・・・しかしそのため、楽しく笑い合って遊ぶ心を割った仲間や友人がいなくなってしまった。  中学2年生の女の子・・・彼女は孤独になってしまった。一人ぼっちだった。 どうもその頃、水泳が嫌になってきたようである。 「私がこんなになってしまったのは 水泳のせいだ。 オリンピックに出たからだ。 出るために苦しい思いをして練習に励んだのはなんだったのだろう。」と思いは深まる一方だった。 当時の彼女は 落ち込んでいた。 私に無理やり水泳をやらせた(と思い込んでしまった)水野隆一郎コーチがうとましく思えるようになってしまった。 「もう水泳はやめた。」と 一度決心をしかかった彼女を救ったのは、T選手の登場である。 北海道出身の彼女は、一心不乱にオリンピック出場を目指していた。 東京の大会会場で出会った2人は なぜか気があった。 岩崎選手はT選手の情熱溢れる目を見て、バルセロナオリンピック前の自分の水泳に対する情熱を思い出した。 「そうだ!私にはやっぱり水泳だ!」 2人はあっという間に親友になった。 そして、なんと同じ種目で2人そろって次のアトランタオリンピックの日本代表になったのである。 心配していた私はホッとして 喜んだのだった。

5.2 水野コーチとの出会い!
岩崎恭子選手のコーチの水野隆一郎氏は、伊豆長岡の温暖な温泉とイチゴの里にお住まいで、60才になった今でも相変わらず幼児の水泳指導に情熱を燃やしている。  伊豆の大自然の中での子供の水泳指導、なんと魅力的な人生なのだろうか。 気が合うのか、バルセロナオリンピック以後25年間、今に至るまでお付き合いして頂いて いる。 住んでいるのが伊豆と山梨と離れてはいるが、よく飲んで世界を語ったものだった。 彼は温厚な人格である。 日本の有名コーチは、怒鳴って嫌がる選手に 無理やりやらせるパターンの水泳指導者が多いのだが、彼は上手に誘導して選手が自分から進んで練習をするように仕向けるというパターンである。 静岡合宿で初めて 出会った岩崎選手と水野コーチの練習時の会話状況を見て、ほかと違うことに驚いたのを思い出す。 その彼が、「水をくぐるように」という平泳ぎの本質を突いた発想 をして岩崎選手の金メダルを生んだ。 私の解析がそれに追いついたのは10年も経ってからだった。 優れた彼の発想力、今でも尊敬の念が絶えない。25年もの長い 付き合いにはお互いの尊敬心があってのことだと思う。 多分彼もこちらを尊敬してくれているのだと思う。 「大切にしなくてはならない友人」、私の大切な宝である。

5.3 金メダルの涙
バルセロナオリンピックから6年たった夏のある日、ガラ携もスマホもなかった時代、うちの電話がなった。 出てみると相手はゴニョゴニョと何か言っているようだが 聞き取れない。 「もしもし」と何度も聞き返しているうちに声から水野隆一郎氏であることがわかった。 「水野さん、どうしたの。何?何?」といっても何を言って いるか聞き取れない。 気がついたら彼は電話の向こうで泣いていたのだった。 「あの水野氏が泣く・・・・何事だろうか。」 なだめながらゆっくり時間をかけて 聞き出した時、水野氏の流す涙がなんと素晴らしい涙なのだと感動を受けてしまった。
その日は、あの岩崎恭子選手の20才の誕生日だった。 水野氏のお宅の電話に、恭子君からの予期せぬ電話がかかってきた。 彼女が大学進学で状況して以来、久しぶり の電話であった。 思いつめたような電話の声で「先生、今日20才になりました。大人の仲間入りです。 私がここまでこれたのは水野先生のおかげだと思います。  先生、本当にありがとうございました。」・・・・。 水野氏は、聞いたとたん息が詰まった。 「ありがとう。君はこれから素晴らしい人生が開ける。 頑張って ください。」 やっとそれだけ言って電話は終わった。
水野氏に涙が溢れた。「あの恭子が20才になってお礼の電話。 節目にきっちりとお礼。 大人になった恭子。・・・・」水野氏は嬉しかった。 「恭子からの電話 ・・・恭子のお礼の言葉・・・大人になった恭子・・・」涙が止まらない。 40男の嬉し涙。 彼女の言葉を借りると「今まで生きてきた中で一番嬉しいこと・・・」 だった。
彼女の思いはどうだろう。オリンピック金メダルの栄光、その後の苦しかった孤独の時間、疎ましかった水野コーチ、T選手との出会い、嬉しかった水泳の 再開・・・・。 少しずつ大人に近づいた彼女は、疎ましかった水野コーチへの気持ちがお礼の気持ちに変わっていたのであったのだろう。 20才の誕生日の節目に 彼女は決断して電話をかけた。 思いつめたような電話の声・・・。
水野氏は泣いた。・・・この涙、正に金メダルの涙。バルセロナオリンピックから6年も経って 流した金メダルの涙。・・・

6.嬉しくて流す涙の素晴らしさ
電話を受けて水野氏の泣いているのを知った私。 水野氏の涙。大きな感動に圧倒された。 と同時に私は2人が羨ましく思えた。 「くぐる泳ぎ」を考えた天才コーチ 水野氏、見事に水をくぐった天才少女岩崎恭子君、彼女のお礼の電話、それを聞いて涙を流す水野氏、なんと素晴らしい生き様なのだろう。
このエピソードからもう20年が過ぎようとしている。 水野氏は60才になり、私も70を越えた。 恭子君も今や主婦である(年は秘密)。
君はどう感じただろうか。悲しくて、悔しくて流す涙より、嬉しくて流す涙には比較にならないほど素晴らしいものがある。 人は勝ち負けで悲しくなったり悔しかったり 嬉しかったりする。 涙が流れるのは常である。 でも、今回のエピソードのように、人の触れ合いでの涙は大きな感動を生む。 大きな感動を生むということは、 それだけ人間にとって重要なことなのだろう。 水野氏にとって、岩崎恭子選手のバルセロナでの勝利による喜びと岩崎恭子君の電話のお礼の嬉しさは、どんなものなの だろうか? 水野氏は、「大切にしなくてはならない友人」、私の大切な宝である。

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