(3)イルカのように泳ぐのではない!(バタフライ)

1. バタフライの動作
平泳ぎとバタフライは左右対称の動作をしなくてはならないという競技規則がある。 そのため、左右の「手のかき」もキックも同時に対称的に行う。 クロールや平泳ぎは 両手や両足を交互に行うので連続的に加速が行われる。 連続加速種目と呼ぶ。 平泳ぎやバラフライでは、動作を左右同時に行うので、手や足を戻す時には加速が行われずに 惰性進行せざるを得ない。 惰性で進むときには身体が大きな水の抵抗を受けブレーキがかかる。 そのため加速とブレーキの繰り返しという種目ということになる。加速が 間欠的に行われるので間欠加速種目と呼ぶ。 平泳ぎで述べたが、惰性進行時には、身体を一直線状態にして、流線型のストリームライン姿勢をとる。れを基本姿勢と呼ぶ。  図1は、バタフライ1ストローク動作のスケッチ図である。


1.基本姿勢(伸び)→2.「かき」開始→3.「かき」→4.リカバリー→5.再突入→6.第1キック→1.基本姿勢、というつながりである。 基本姿勢で始まって一連の かきやキックを行って基本姿勢に戻ることで1ストロークが完結する。 バタフライは、両足を揃えて足を上下する「ドルフィンキック」という足の加速手段を使う。キックの 様子がイルカの尾ビレの上下動と同様に見えるから命名された動作である。 そのため「バタフライはイルカのように泳ぐ」というのが長らく常識であった。図2は、イルカの 泳ぎと比べるためのスケッチ図である。 イルカの加速は尾びれの上下動のみで行うようである。 流線型の身体を尾びれの上下動に連動させて身体を「うねらせて」たくみに 前進する。 目にも止まらぬ速さである。 身体の進行は赤線で表示するようにウェーブ状になる。 一方、人間のバタフライでの加速は「手のかき」が主体となる。 図の ように、選手当人はイルカのようにイメージして泳いでいるのだが、身体中心である腰の進行は、赤線のように水面付近を一直線に進むことになる。 イルカの様にスムーズに 泳いでいるようにするには、再突入でグッと頭を深く入れるように動作をすることだと思われていた。 事実、そのように泳ぐと美しく見える。 しかし、ここに大きな落とし 穴があった。

2.くさびブレーキ!
10年ほど前の実際のレースの水中映像を観察してみる。 図3と図4は、当時圧倒的に早くて100mバタフライ種目で日本記録を出し続けたY選手の2004年日本選手権 でのレース中の水中映像である。


図3は図1の➃に相当するリカバリーの局面、図4は➄に相当する再突入時の映像である。 水が静止しており、選手が泳いで前進している わけであるが、選手が静止して水流が当たっている状態で考えても流体力学的には全く同じと考えて差し支えない。 図3の時点では、選手の前からあたる水流は、斜めに置か れた板のように、選手の腹部や胴体に沿って円滑に下向きに方向を変えて流れることになる。 図4の場合、イルカの様に美しくスムーズに泳いでいるようで見える。しかし、 頭を深く入れたため背中と水面との間にくさび状の間隙が生じてしまう。 図5のように、選手の背中に流れ込んだ水は逃げ場がなくそこに滞留してしまう。 パラシュート 状態である。 このため、進行上の大きなブレーキが生じてしまう。これを乗り越えて泳ぐには莫大な体力を要し、決してタイムアップにはつながらない。 我々は「くさび ブレーキ」と呼んだ。


3.バケツ6杯分の水の溜め込み!
背中に背負った逃げ場のない水からの抵抗によるブレーキは大きなものがある。 しかし、このくさびの水はもっと重大なロスを抱えているのである。 このくさびに溜め込ん だ水の量はどのくらいであろうか。 図6は、y選手の「かき」開始直前の映像から水の量を推定してみた。 背中の沈み込みは水面下約20cmである。 彼のお尻から方 までの高さを50cm、肩幅を50cmとして計算してみると、約30リットルになる。 これは100円ショップで売っている10リットルのポリバケツで3杯分にもあたる。  こんなに大量の水が水面と背中のくさびに入り込んでいるのである。 バタフライの動作を考えてみると、第一キックを打った直後、「かき」を開始すると、背中に水を溜め 込んでいても、いなくても、一気に上半身(背中)は水面上に上がっていく。 図7は、背中に水を溜め込んだ場合のスケルトンスケッチ図であるが、「かき」で背中が水面上 に上がる場合にくさびの水は逃げ場がないので仕方なく水面上に持ち上げられることになる。 Y選手の場合、イルカをイメージして20cmの深さに頭を突き込んだ場合、 「かき」動作の開始直後は30リットルもの水を水面上に持ち上げることになる。 水面上に重いものを持ち上げるのは大変である。


図8は、水面上に浮かんでいる水の入ったポリバケツを水面上に持ち上げる場合のスケッチ図である。 ポリバケツが水面上すれすれにある場合は別に重くも何ともなく感じて いるが、それを水面上に持ち上げると異常に重いのに驚かされる。 容量10リットルのバケツなら持ち上げると10kgなので当然の感覚である。水は水面上に持ち上げると 大変重いのである。

4.毎ストロークごとの水の持ち上げは甚大なエネルギーのただ損!
バタフライは、「かき」を行い、手を空中でリカバリーするため背中は必ず水面上に出る。 当たり前だが、この「水の持ち上げ」は手の「かき」のエネルギーを使って行わ れる。 彼は1ストロークごとに毎回、バケツ3杯分の背中の水を水面上に押し上げていたである。 本来「手のかき」は身体を前に進めるという重大な使命がある。しかし、 前に進むのとバケツ3杯分の水の持ち上げとどちらのエネルギーが大きいだろうか。 しかもこれが毎ストロークごとに繰り返される。 水の持ち上げは進行には関係がない。  「手のかき」のエネルギーの多くの部分をただ損している。 図9は、H県の国体選手強化合宿での女子高校選手の映像である。 上の映像は再突入直後の「かき」に入る前 での映像ある。 再突入時に頭を深く入れたため背中のくさびに多くの水を溜め込んでいるようすがわかる。 下の映像は「かき」を始めたときである。水面の泡をよく見ると 大きく大きく盛り上がっているのがわかる。 かなり大量の水を持ち上げている。 これでは水持ち上げのエネルギーロスが甚大である。 事実、彼女はフラットに変えること で100mのタイムを3秒も上げ、普通の選手からH県の国体代表選手に成長し、決勝進出をはたした。 一般に「かき」を開始した後の水面の盛り上がりは、水中映像で このように鮮明に観測できる。


5.フラットバタフライ
バタフライを速く泳ぐ技術として、現在は再突入時の背中には水のくさびを作らないのがいいとされている。 図10の松田丈志選手の2012年日本選手権での再突入直後の 映像である。 彼は終始この泳ぎを十分に習得し、北京オリンピックの200m種目で銅、ロンドンでは銀と2大会連続でメダルに輝いた。 この技術で重要なのが、再突入時 に頭を水中に入れ込まないようにすることである。 再突入時に視線を下に向けると、頭が下向きになってしまう。 重い頭の関係で身体の重心が前になってしまい、結果と して深く突入してしまう。 視点を前方にすると、あごが出た状態で入水することになり、重心を後方に保つことができ、頭を深く入れなくてすむ。 おでこの線が水面になる 位の気持ちで再突入するのがいいようである。 水のくさびを作らないバタフライは、結果的に上下動が少なくなり、平らに泳いでいるように見える。 そこで、このような 泳ぎは「フラットバタフライ」と呼ばれる。 今の競泳界では、「フラットバタフライ」技術が速く泳ぐための主要技術となっている。 これは、アメリカで始まって世界に 広がったと思われているが、実は25年前に当時の日本記録保持者司東選手と我々で始めた泳ぎ方で、それが再輸入されているのである。 バルセロナオリンピックで活躍した 女子の第一人者の司東選手が取り入れて、それまでの日本記録を大幅に短縮した。 当時の世界選手権で3位に入って皆を驚かせたものだった。 当然、司東選手の上下動が 少なく早くて軽い感じの泳ぎが世界に注目され、「フラットバタフライ」はあっという間に欧米広がることになった。 それが今も現代バタフライの先端技術として注目されて いるのだ。

 

 (4)リアクションタイム(スタート)

1.スタートの重要性
君は水泳レースを見たとき、選手が号砲一発で一斉に飛び込んで浮き上がると強い選手がもうトップになっているのを見たことがあると思う。 スタート技術は上手に行えば、 そうでない場合に対し数秒以上も差をつけられる重要なテクニックと位置づけられている。 浮き上ったところでの大きな差は、その後のレース展開で挽回するのが大変である。  しかも、スタートは中選手全員が行う動作である。 上手にやっても下手に動作しても使うエネルギーはほぼ同じである。 タイム差がつけられればただ儲けなのである。

2.スタート・ターン時間はレースタイムの20%も!
実際のレース状況を2008年北京オリンピックでの北島康介選手の金メダルレースで調べてみる。 当時北島選手はスタート・ターン技術で世界トップ水準であった。 図1は そのときのレース分析データである。 下部の赤字の部分が、レース各局面の通過時刻で、北島選手が刻々進んでいる様子を表したものである。 これから各動作の所要時間 を算出した。 図から水泳競技は単に泳ぎだけでなく、このような様々な動作の積み重ねで行われているとわかる。


号砲からの反応時間は0.63秒と世界最高水準のものである。 細かい内容は省略するが、号砲から浮き上がりまでのスタート動作の全所要時間の合計Sは5.20秒で あった。 前半(行き)の泳ぎは21.40秒、ターン所要時間合計Tは6.36秒、後半(帰り)の泳ぎ所要時間は25.95秒であった。結果、行き帰り合計の泳ぎ そのものの時間Wは47.35秒となった。 各動作の全レースタイムに対する所要時間の割合は、スタートSが8.8%、ターンTが10.8%、総泳ぎ所要時間Wは 80.4%であった。 スタート・ターンの所要時間が2割近くも占めている。 100分の1秒を争う競泳競技なのであるが、公式記録の5分の1に近いのである。 当時、 選手たちはスタート・ターンの重要性に気づいていなかった。
このように各動作の所要時間の分析を行うと選手の技術習熟度が一目でわかる。 この方法を「レース分析」と呼び、タイム向上の大変効果的な科学的手法として世界中で 活用されている。 このレース分析で、号砲一発後飛び込むまでの台上での反応動作時間のことを、「リアクションタイム(”reaction time”)」と呼ぶ。  実はスタート時のリアクションタイムに、人間の動作に関する重大な秘密が隠されているのである。

3.リアクションタイムについて考えてみる!
泳ぎでは、バタ足の動作速度は陸上動作では小刻みな歩行程度、「かき」動作はゆっくりした手の移動となる。 どちらかというと陸上動作に対し緩慢な動作パターンである。  しかし、スタート動作の中の号砲に対するジャンプの飛び出しまでの動作は、静止状態からの急な動作開始が要求される。 これは選手の敏捷性によって大きく所要時間が 左右される。


図2は、広島アジア大会、女子100m平泳ぎ予選最終組でのスタート号砲直後のスタート台上での動作の映像で、上の列は、中国選手、下の列は日本選手である。  リアクションタイムは、中国選手が0.69秒で世界トップ水準の速さであった。 下の日本選手は0.84秒と極めて遅かった。この時は0.15秒もの差が生じていた。


図3は、動作の状況がわかるように図2の動作をスティック図にしたものである。 映像の右端は、スタート号砲直前の構えている姿勢である。中央の映像が号砲から 0.4秒後のもので、選手が動き出した直後のものである。 左は、上の選手の足が離れる瞬間の砲後0.69秒のものである。 下のリアクションタイムが0.84秒の 日本選手はまだ膝が曲がっており、足離れには至っていない。 スタート台上の動作を、両選手の頭の動きに注目して映像間に矢印をいれてみた。 中国選手の矢印は真横に 引かれているようだが、日本選手の矢印は真ん中の映像では一度下へ下がっているようである。 計測によると頭頂の下がりは13.2cmにもなっている。 表1は、この時の レースの全選手のリアクションタイムである。 現まだスタート台の上での動作で日常的に0.1~0.3秒以上ものタイム差が生じている様子がわかる。 ここで生じた タイム差は、ハンデキャップとしてゴールするまで背負っていくことになる。 0.1秒の差があることは、例えば自由形の短距離種目で考えれば男子選手の平均泳速度は 2.5m/秒以上なので、約25cm以上の差がついていることになる。 50mや100mなどの短距離種目で最初から25cm以上の差をつけられてしまうと挽回には大きな エネルギーを必要としてしまい、レース展開上大きな損失である。

4.反動動作!
図3による13.2cmの頭の下がりは何を意味するのだろうか。 結論から先に言うと下の日本選手は、スタート台からのジャンプ動作を行うために、頭を振って反動を 取っているのである。 一般に、スタート号砲後、音に反応して0.2~0.3秒に選手の身体が動き始める。 この反応時間は選手によって違うが、その差はせいぜい 0.05秒程度である。 その後、頭を振って(沈み込んで)反動を取ると、0.2秒程度は余分に時間がかかってしまう。 上の中国選手は、頭が真横に移動しているので 沈み込んでの反動は取ってはいない。 頭を振って沈み込み反動を取る日本選手に対し、動作の所要時間の差が生じてしまっている。 結果的に合計されたリアクションタイム 差は0.16秒にもなってしまった。 いったいどういう状況で反動を取る局面になってしまったのであろうか。
図4は、筋肉が伸びると反発力が発揮できる状態での筋肉収縮による力の発揮状況である。 ①のように筋肉が最大収縮している時、脳から急伸長の指示が来てパッと伸びる 状況では、反発力が最大になる。 ところが②のように中途半端に伸びた状況では、最大収縮との差分だけしか伸びず反発力は小さくなってしまう。③のように伸びた状態から はこれ以上伸びないので反発しようがない。


しかし、スタートジャンプ飛び出しでは最大の勢いが必要となす。 図5のように、選手は一度最大収縮状態を作ってから、筋肉を急伸長させて大きな反発力を得ようとする。  必要な反発力を確保するための一時的筋肉収縮動作が行われる。 これが反動動作の局面ということになる。 
スタートジャンプ飛び出しの反動は、頭を振って沈み込み、身体のしなりのエネルギーを溜め込んだ後、一気に爆発して強いパワーを生むように行う。 沈み込んでエネルギー を溜め込んだ状態を反動のための「タメ」と呼ぶ。


別項目で解説するが、人間は急な動作開始には必ず反動が必要である。 そういった意味では、下の日本選手が最も自然に動作したことになる。 しかし、トップ選手に遅れ を取ってしまった。 上の中国選手は反動を取っていないようにみえるが実はそうでない。 反動のための沈み込みを水泳界用語では「タメ」という。  スターターの「ヨーイ」の掛け声の時点での号砲前に、あらかじめ反動のための沈み込み状態を作って(タメをとる)動作開始の準備を行ったのである。 図2のレース映像で 中国選手が反動のタメを事前に取っている姿勢がわかると思う。 事前にタメ込んでおいたのですぐ飛び出し動作に移行している。 下の日本選手は自然体で行ったため、 号砲後沈み込んで動作したのである、 反動の時間を所要してしまい遅れを取った。 約0.2秒近いリアクションタイムの差、 これが技術力の差である。
ルール上、スタート動作で「よーい!」掛け声の直後は静止しなくてはならない。 号砲1発で飛び出すということは、「反射的な動作開始」がルール上強制された事項なの である。 反動のタメを取った構えが重要なのである。 当時、知らなかった日本の競泳界は中国に大きく遅れを取っていた。 中国選手は「急発的動作開始」の時の反動の 状況を知っていた。 この時点で完全にスポーツに対する科学の力に差があった。 しかし、今やこれは日本水泳界で常識。 リアクションタイムは世界にヒケを取らない 状況になっている。

5.急発的動作開始はスポーツにとって宿命!

号砲1発で、飛び込む競泳のスタートでは反射的に動作を開始するテクニックでタイムに大きな差が生じることがわかった。 反射的に動作を開始することを「急発的動作開始」 と呼ぶことにする。 急発的に動作を開始なしなくてはならない状況は、多くのスポーツで当たり前のことである。 むしろその動作開始の出来ばえが勝負に大きく影響をする 場合が多い。 この重要な「急発的動作開始」の科学・・・・別項目で解説する。

 

 (5)飛距離を伸ばせ!(スタート技術)

1.平泳ぎの世界記録はすごい!
平泳ぎ種目は1904年の第3回オリンピックから115年間も正式種目として競技されている。 歴史の積み重なった種目である。 現在、競泳選手として登録されている数は 1200万人と言われている。 速さを競う種目では、陸上のトラック競技を越えて世界最大の競技種目と言われている。 事実人気は高く、オリンピックでも1万5千席の 入場券が最初にあっという間に完売してしまうほどである。 1200万人の内、平泳ぎを専門にしている選手は400万人と言われている。 その半分の200万人が男子選手 であろう。 北島康介選手の世界記録は、120年近い長い歴史があり現在でも200万人が凌ぎを削っているという男子平泳ぎ界の価値あるものなのである。 歴史の浅い競技 人員の少ない世界記録とは格が違うのである。
2003年、新鋭北島康介選手が100m種目で世界をあっと言わせた世界記録は、当時の記録保持者のスロードノフ(ロシア)選手のタイム59秒97を0.19秒短縮した 59秒78であった。 平泳ぎの平均泳速は1.67m/秒なので約31cm前に出てゴールしたということになる。 格調高いこの記録は本人とその周辺の方々の大変な努力で なされたものである。 その様子は一部をエピソードの項で解説する。北島選手が短縮した価値ある0.19秒は1分近い100mレースタイムのわずか0.3%である。  しかし、世界のトップレベル泳者にとってはとてつもなく大きな0.19秒なのである。 それまでの世界記録保持者が自分の限界に挑戦して出した記録を越える0.3%の短縮。  単に過酷な厳しい練習を積むというのだけでは決して実現しないと思う。
現代水泳界の新記録は、レースを構成する全体の動作について、隅々を細かく調べ、わずか0.3%だが可能な短縮要素を探り、要素を実現するための厳しい訓練をする、といった 知的な挑戦なのである。 スタート・ターンは全レースタイムの20%を占めているとリアクションタイムの項で解説した。 つまり、スタート・ターン局面の挑戦でも世界記録 実現の可能性が20%あるということになる。
今回はスタート動作の中での飛び込みジャンプについて解説する。

2.スタートプの苦手な日本選手
水泳競技でのスタート技術は重要である。 予選を勝ち抜いた選手の集まる大きな大会では泳ぎで1秒もの大差をつけるのは至難の技であるが、リアクション・ジャンプ・突入水・ 水中進行・浮き上がり・泳ぎだしなどと多くの局面で構成されるスタート動作では上手下手しだいで1~2秒差が生じるのは日常的である。 しかし残念ながら日本の選手や コーチは一般的にスタート練習に情熱的ではない。 1つは「水泳とは泳ぐこと」という固定観念が強く、「練習とは泳ぐこと」と思い込んでいるのでまず泳げということになって、 スタート練習には手がまわらないことがあげられる。 もう1つは選手育成の場のスイミングクラブや学校のプールの水深が浅く飛び込めば危険であるからである。 欧米では プールは深い(2m以上)のが常識である。 そこでは初めて泳ぎを覚える子供たちにまず危険回避を徹底的に指導してそれから泳ぎを教え始めるといった風にやるようである。  日本は「安全に!安全に!」というのが常識で、絶対危険な目にあわせないという方針で行われる。 そのため「飛び込み禁止」がプールの常識になっている。 これは日本だけ。  欧米ではホテルの娯楽プールさえも飛び込みOKなのが普通である。 そのため日本選手は昔からスタートジャンプが苦手である。 それは残念ながら現在も根強く続いている。

3.「水汲み問題」
「サムロイドのパズル百科」という本をご存知だろうか。 20世紀の前半ごろから現代まで世界の愛好者を狂喜させたパズルの聖典である。 筆者も高校時代にこの本に載って いるパズルを解くのに目を輝かせて没頭した記憶がある。 その中の1つ「水汲み問題」は、スタートジャンプの大きな秘密を理解する重要なパズルである。 ぜひ、このパズルを 解いてみてほしい。


昔のことで、ある親孝行の息子が2km離れた一人暮らしの母へ、1km離れた清流の川から水を汲んで届けることになった。 川の水汲み場は1kmごとに3箇所あった。  この場合、水を汲んで台車に乗せ母の家に届けるルートが3つある。  ルート1は直ぐ近くの水汲み場に行って 水を汲んで行く場合で、ルート2は中間地点にある汲み場で汲んで母へと向かう場合、 ルート3は自宅から 最も遠い汲み場で汲むケースである。 台車を引いて歩く距離は、ケース1と3では3.2kmとなり、ケース2は2.8kmと最も少ない。  喉を乾かせて待っている母へ、どのルートが一番早く水を届けられるだろうか? 図2のように、台車が空の時は急いでいることと川の方への道が若干下りということもあって 5km/時の速度で歩けるが、水を積んだ場合は重いのと若干の上りで時速1.5kmに歩み速度が落ちてしまう。{これは実際のサムロイドのパズルに若干脚色してある。} パズルの 回答は以下のとおりである。 表1は各ルートの所要時間を計算したものである。

ルート1の場合川までは1kmである。 台車はまだ空なので時速5kmで台車を牽いて歩ける。 所要時間は12分となる。 川で水を汲んで台車の容器に入れて母の家に向かう。  距離は三角形の斜辺にあたり2.2kmとなる。 水をたっぷり積んでいるので歩行速度は時速1.5kmとなる。 所要時間は89.4分もかかってしまう。 ルート1では合計で歩いた距離が 3,2kmで総所要時間は101.4分になる。 同様に計算すると、ルート2では、真ん中の水汲み場までの距離1.4kmはまだ水を積んでいないので17分、母までの1.4kmは水を積んでいる ので56.6分もかかってしまう。 合計で歩いた距離が2.8kmで総所要時間は73.5分となる。 ルート3では、一番遠い水汲み場までの2.2kmを空で歩き26.8分、母の家までの1kmを 水を積んで40分で歩くことになる。 合計で3.2km歩き、総所要時間は66.8と最も短くなる。 つまり、正解はルート3である。 鋭い頭脳をお持ちの方々は、問題を読んですぐ 正解がお分かりになったことと思う。 このパズルの本質は、「所要時間を短縮するには、速度が遅い区間を減らして、早く進める区間を増やせばいい」ということである。  このパズルのように単純化され整理されるた状態では非常にわかりやすい。 だから当たり前のことと思うかもしれないが実に重大な意味を持っている。
このパズルの本質を念頭において競泳のスタート技術を考えてみる。

4.スタートジャンプには秘密がある!
図3は、レースでのスタートジャンプの様子である。 ①は北京オリンピックの男子400m個人メドレーのスタートジャンプの様子である。  手前から3人目が日本の萩野選手で、この時は銅メダルの栄光に輝いた。 一番奥に写っているのが金メダルだったロクテ選手(アメリカ)である。

図の両側の赤線は、右側がスタート台の線、左側がコースロープの 5mラインの線である。 2つの赤線は5m離れている。ジ ャンプの評価は飛距離で行う。 選手のジャンプで最初に手先が水へ突き入る水面上の位置とスタート台との距離を 飛距離とする。 突入後は、水のしぶきなどで計測しにくいからである。 図で萩野選手は2m74cmの飛距離であった。 ②の図は、2007年の世界選手権の男子200m バタフライ決勝のスタートジャンプの様子である。 手前から3人目の全身水着がフェルプス選手(アメリカ)である。 彼はこの時世界記録を樹立した。 同様に飛距離を測って みると4m09cmであった。 大会は違うが2人の飛距離は1m35cmも差があった。 ちなみに萩野選手も個人メドレーなのでスタート後の最初の泳ぎはバタフライである。
水面への突入速度は男子で一般的に5~6m/秒くらい、女子選手は1m/秒ほど少な目である。 ジャンプの飛距離の世界のトップ水準は3.5m位であるが、ヘルプス選手のように 練習を積んだトップ選手の中には4m以上もある選手もいる。 日本選手は苦手である。 ちなみに北島選手は3m15cm程度で世界水準に近い。  飛距離が少ないとタイム的に大きな損失がある。「ジャンプ飛距離の秘密」である。

5.「飛距離を伸ばせ!」
図4は、ジャンプの飛線図である。 飛距離の差Lは大きな意味を持っている。 飛距離の少ないB選手とLだけ多いA選手を比べてみよう。

B選手は飛距離がLだけ短いので、泳ぐ距離がLだけ多いことになる。 A選手は飛距離の多い分Lだけ泳ぐ距離は少なくなる。 つまり両選手にとって、このLの長さをジャンプ の空中で進むか、泳いで進むかの違いになる。 泳ぐ速度とジャンプで飛ぶ速度は大きく違うのである。 Bを萩野選手とAをフェルプス選手とすると、飛距離差Lは1m35cm であった。 男子のバタフライ種目で考えると、世界のトップレベルで平均泳速度は約2.0m/秒となり、計算すると泳いでの135cmの所要時間は0.675秒となる。  男子のジャンプの飛速度は約5.5m/秒位なので差の135cmの飛翔はは0.24秒で進む。結局所要時間差は0.435秒となる。 空中を飛んだフェルプス選手の方が 0.435秒も速いタイムでゴールすることになる。 飛距離差による所要時間の差はレースが終るまで残る。 飛距離の少ない選手はその分のハンデキャップを背負って泳ぐことに なる。
ことの重大さがわかっただろうか。 ジャンプ空中では5~6m/秒の高速度区間、泳ぎは種目によって違う。 チャンピオンレベルでも平均泳速は、平泳ぎで1.6m/秒、背泳ぎで 1.8/秒、バタフライで2.0m/秒、自由形で2.15mである。空中飛翔よりははるかに遅い。
パズルの教訓は、「所要時間を短縮するには、速度が遅い区間を減らして、早く進める区間を増やせばいい」である。 速度の速いジャンプの飛翔区間を増やして、速度の遅い泳ぎ の区間を減らす。 合言葉は「飛距離を伸ばせ!」ということになる。

6.真剣味の足りない日本選手!
どうやって飛距離を伸ばすかは専門的になるので、ここでは省略する。  図5は、2014年日本選手権の女子100mバタフライ決勝のスタート飛翔時の映像である。 両サイドの 赤い線は、同様に5mラインとスタート台で、間隔は5mである。 ピンクの線は台から2mのラインである。 

各選手は、全国各地の大会で標準記録を突破してこの大会に出場し、予選を勝ち抜いて決勝に進んだ日本のトップアスリートである。しかし、ジャンプの飛距離は誠にお粗末としか 言い様がない。 ピンクの線は2mである。 各選手はまだ飛翔中ではあるがもうかなり落下状態である。 もう少し進むとは思われるが、飛距離は2mちょっとであろう。 中には 2mラインに届かない選手もいる。 いくら女子でも世界のトップ選手は3m以上が常識である。 中には3.5mを超える選手もいる状況である。 世界水準から1m程も短いので ある。 女子選手の世界記録の平均泳速は0,18m/秒なので、この飛距離差1mはタイム換算で035~0.4秒にもなる。 これは非常に大きいのである。 あの北島選手の世界記録 は0.19秒の短縮であった。
この0.19秒が如何に貴重なのか衆知のことと思う。 口では「百分の1秒を争う競技」というもののこんな貧弱なジャンプをしている日本選手、させて平気なコーチ陣、いったい 何を考えているのであろうか。 本気で真剣に記録向上を狙っているのであろうか。

7.河井のグチ
図3のジャンプをみると、明らかにフェルプス選手はジャンプ飛距離のことを知っていると思われる。 そのための練習を繰り返していることも想像がつく。 しかし萩野選手は知ら ないし練習もしていないであろう。 このような選手を世界の舞台に送り出している日本の水泳界。 銅メダルを獲得したと誇らしげにビデオがテレビに流れるたびにとても恥ずかしい 気がした。 きっと世界コーチや選手のがこれを見て、「何だ!こんなことも知らないのか。」と思い「鼻で笑う」であろうと……。マイフェアレディというミュージカルがある。  スラム街育ちの女性主人公が見事な貴婦人の育っていくという楽しい話だった。 その主人公がスラム街を脱出した当初、お化粧と衣装でどう見てもレディと見えるのに一言喋った言葉 で育ちがバレてしまった。 周囲が呆れてしまうというシーンがあったのを覚えているだろうか。 正にこれを思い出す。 「メダルを取ったのにこんなこともできない。」、 恥ずかしいことなのである。
私は5年ほど前に水泳連盟を引退したのだが、岩崎恭子選手に始まり北島選手、金藤選手などまで20年以上世界と戦ってきた。 私にとってこんな未熟な選手がオリンピックに出る ことはあきれた気持ちになっている。 当時からコーチ研修会などことあるたびに「飛距離」の重要性を示してきた。 世界記録を狙っていた時の北島選手もちゃんとスタート練習を 行ってものにしている。 当時うまくできなくて彼が仏頂面をしていたのを今でも思い出す。
どうして今の選手やコーチたちは少しでもタイム向上を真剣にはからないのであろうか。 スタートジャンプの飛距離を伸ばせばタイムアップするのは明確である。どうしてスタート 練習をしないのであろうか?  競泳だけでなく、他のスポーツ種目でもスポーツの科学的アプローチは重要で効果的である。 スポーツの科学をなぜ見つめないのであろうか。  真剣味の足りない日本のスポーツ界、あきれてものが言えないのが現状である。
競泳の科学についてはここまで解説してきた以外にも語りきれないほどたくさんある。 でも他のスポーツ種目にも多くの科学がある。 一時的に次回で水泳に関しての投稿を終了する つもりである。 次回の投稿は競泳の最後として、趣向を変えてテレビの伝えない選手やコーチの「心に迫る」エピソードを特集してみる。 今はエピソード1~5を考えている。  その後は、今まで手がけてきたいくつかの分野のスポーツ科学を取り上げてみるつもりである。

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