テーマD-02 競泳技術を科学する 関連データベースへアクセス

 第1章 前に進むのはうしろに「押す」

 1.はじめに

筆者は典型的な絶対尺度競技種目である競泳競技に関して、20年以上、科学の力で競技力の向上(速く泳ぐ)を図ることに従事してきた。 世界との戦い を科学の力で実現してきたと思っている。 最初に関わったのが1992年バルセロナオリンピックの女子200m平泳ぎ金メダルの岩崎恭子選手である。  ここでは専任コーチの水野隆一郎氏の考えたコンセプト「水をくぐるような平泳ぎ」の金メダル技術を科学的に解明することができた。 この技術は、 その後林亨(アキラ)選手の様々なドライアルで洗練され、天才的な才能を持つ北島康介選手の登場で花開くことになった。 アテネ・北京の2大会連続 で100m・200m平泳ぎの2種目制覇という大きな成果を生んだのだ。 さらに今回のリオ大会での金森選手の女子200m平泳ぎ種目の金メダルにも 貢献することができた。

 2.「速く泳ぐこと」を科学する!

競泳で勝つこととは、他選手より速く泳いで先にゴールタッチすることである。 だから競泳に情熱をささげる人々は、どうやったら速く泳げるか真剣にトレーニングする。 しかし、ただ やみくもに何も考えずに泳ぎ練習を繰り返すのは効率的でない。 「泳ぎの進行の仕組みを科学的にとらえ、より効率的な動作や姿勢を考え、それを実現するための練習やトレーニングに励む」 というのが、今や水泳だけでなくほとんどのスポーツの世界の流れなのである。 「泳ぎの技術を科学的にとらえる」ことはどんなことか、基本的な例を上げて解説をしてみたい。

 3.進むということを考える!

スポーツの最も基本的なことは「進む」ということである。 例えば球技はボールや玉を「進める」ことで行われる。 野球について考えてみると、ピッチャーがボールを投げてそれを打者 が打って行われる。 投げる動作も打つ動作もボールを「進める」ことである。 テニスや卓球もラケットで玉を打って、相手が取れない場合に得点が得られるルールとなっている。  球技では、玉を「進める」ことが基本的動作なのである。 陸上競技で走る種目(100m走、マラソンなど)は速く走ることで競われる。 走るということは、自分の身体を速く前に 「進める」ことである。 競泳も同じである。 決められた距離をいかに速く泳ぐかで勝負が決まる。 速く泳ぐということは、水の中で自分の身体を速く前に「進める」ことである。
図1は、ボールを投げる動作の模式図である。 投げるということは、手でボールを前に「押す」ということなのである。 速く押せば速く飛ぶ。速球投手はそれだけ速くボールを押して いるのである。 図2は、走る動作の模式図である。 走って前に進むには、足で地面を後ろに蹴っていることになる。 早く進むには、早く蹴っていることになる。

物理学には、押されて動く物体には慣性モーメントという概念が考えられており、物体の重さが一定ならば強く押されればそれだけ速く動くという法則がある。 難しい理論は置いても、 「強く押せば速く動くことになる」と考えていい。
図3は、泳いで前に進む選手のスケッチ図である。 とりあえず手だけを考えてみると、泳いで前に進むには、肩を中心に腕を回しな がら「手をかく」動作をする。 前に進むわけだから「水をかく」動作は結果的に水をうしろに「押す」ことになっているのである。 読者の君に質問してみよう。 今まで「手のかきで水 を押して前に進んでいる」と考えて泳いでいただろうか。 泳ぐフォームや動作は、腕を回して「水をかく」と教わったので義務感にかられて腕を回しているのではないだろうか。  「手のかき」でうしろに水を押すことで進むことを実現しているとがわかれば、おのずから動作パターンが変わってくると思う。 しっかり「水を押す」ことができれば、意外と簡単に君も 速く泳げるのだ! 


 4.水を「押す」ことを科学する

水を押して進むということを考えてみよう。 図4①のように、赤い矢印方向へ(垂直に)壁を押した場合、反対方向に同じ大きさの力を壁から受けるのが物理の法則である。  「反作用」という。水は不定形の流体なので、壁や地面のように固定された物体の場合とは違い、普通に押して抜けてしまう。 しかし、押し方を工夫すればちゃんと反作用が働き、 押し返してくれる。 水の押し方の工夫には素晴らしいテクニックがあるが、チャンスがあればまた別に解説する。 ここではとりあえず押す方向について考えてみる。 図4①の場合の ように水が押せたとして、身体が前に進むのは反作用の力(青い矢印)による。 強く押せば強い反作用で速く前に進める。 進むのは青い矢印方向である。 ②図のように30度の傾き で押してしまうと、身体を前に進める青い矢印方向の反作用成分は86%に落ちてしまう。 しっかり水を押しても目に進む効果が86%になってしまう。 ③図にように45度の場合は 70%にも減少してしまう。せっかく強く押しても「手のかき」で得られる速度が70%も落ちてしまいことになるのである。 現在、100m自由形種目の男子トップ選手は48秒弱の タイムである。 86%に泳ぐ速度が落ちるとタイムは55秒になってしまう。 70%なら1分6秒もかかることになる。 斜めに「押す」と効率が悪いことがわかる。 速く前に進む にはきっちりうしろに「水を押す」ことが重要となる。

 5.世界トップ選手の動作の比較

努力のおかげで、今の日本水泳界はかなり科学指向になった。 世界水準でもそう遅れはないと思う.しかし15年前はひどかった。 例えば男子100m自由形の世界記録は48秒台、 日本記録は51秒どうしても切れないという状況であった。 3秒も遅れを取っていたのだ。 距離に換算すると自由形の3秒差は8mもの進行差に相当する。
この状況を打ち破るため、水中映像の調査が始まった。


図5の中央左側の連続映像は、当時の日本選手権の男子100m自由形優勝者の某選手の、「かき」開始から0.1秒ごとの0.4秒間のものである。 つまり「かき」動作前半部分という ことになる。 この時の記録は51秒ギリギリであった。 右側の連続映像は、当時200m種目で世界記録を連発してそのときはオランダの選手が世界記録を出して優勝したのだが、 ソープ選手は2位でもちろん記録は48秒台後半であった。
この図には、わかりやすいように両サイドへそれぞれの選手の「手のかき」動作の様子のスケッチ図を添付した。 ①が「かき」はじめで、0.1秒ごとの映像である。 ⑤が「かき」 初めから0.4秒後ということになる。 映像で手の動作を比較してみる。 左の日本選手は、肘を伸ばしたまま腕を回転するように「かき」を行っている。 従って手のひらがうしろに 向くのはやっと⑤くらいと思える。 本格的に後ろへ水を押すのは「かき」始めから0.4秒後ということになる。 右のソープ選手は、肘を曲げて「かき」を行うので、手のひらが後ろ側 を向くのは③くらいとなる。 図5と図6は、「かき」動作の手の動きを見るため、手の動きのスケッチ図を肩の関節部分を合わせて重ねて表示した図である。


図6では、日本選手は、肘を伸ばして「かき」を行うため、「かき」始めから③くらいまでは水底の方向に水を押したことになっている。 前に進むにはうしろに押さなくてはならない はずだ。 ④で手のひらが少し後ろ方向に向き出して0.4秒後の⑤で十分ではないがうしろに押し始めている。 選手に「水を後ろに押して前に進む」という概念がないためと思われる。
図7のソープ選手は、①の「かき」初めから肘を肩の高さに固定して、非除を曲げて「かき」動作を行っている。 こうすると手のひらはすぐ後ろに向き始め、0.2秒後の③ではもう 「かき」でに「水押し」が後ろ向きになっている。 そして③、④、5、としっかりうしろに水を押している様が見とれる。 なるべく早くたくさん力強く「水を押して」いるのだ。  「うしろに押して前に進む」と行くことを意識した「かき」動作であることは疑いない。

 6.動作の効率を考える!

図8を見て、手のひら方向に水を押していると仮定して、腕を回して「かき」を行う動作の効率を考えてみる。手のひらが押している方向とうしろ方向のズレ角をθとすると、押す力を Fとすると、前に進むための後ろに「押す」力はFcos(θ)となる。 後ろに押す効率はcos(θ)分だけ小さくなることになる。 両選手の手のひらが押している方向の角度を1コマ ずつ測ったのが表1である。 θ°の項が押している方向、cos(θ)の項が「押す」効率である。 両選手を比較するとソープ選手の方が圧倒的に効率が良いと読み取れる。①から⑤まで の5回の計測での効率合計は、日本選手が2.53、ソープ選手が4.07となった。 62%も効率が悪いのである。 5回とも最高効率ならば5.0なので、ソープ選手は「かき」動作 で力を使った分の8割を後ろに押すことに使ったことになる。 日本選手は5割しか使っていないと思われる。 大きな損出をしていたのである。

 7.「かき」動作前半の「うしろに押す」効率の差で1.1秒も差がついている!

の時のレースの実測値によると、⑤の時点での日本選手の進行速度は2.24m/秒であった。 ソープ選手は⑤時点で2.53m/秒という高速度が計測されている。 やはり、「水押し」 の効率が良いためである。 やはり両選手の左手の「かき」前半結果は、効率の差で生じたのである。 この差は、距離換算するとレース全体では2.32mもの差がつくことになる。 (⑤前後の0.1秒間の進行差が2.9cmになる。1ストロークでは両手を「かく」ので倍の5.8cmの差がつくことになる。 10mレースでは40ストローク前後なので、5.8cm ×40回=2,32mとなる。) 男子100m自由形種目の平均速度は2.1m/秒なので、2.32÷2.1=1.1秒となり、日本記録と世界記録の差の3秒のうち1.1秒はこの「かき」前半の うしろに「水を押す」効率の差ということになる。

 8.衝撃を受けた日本の競泳界!

この計測結果は日本の競泳界大きな衝撃を走らせた。  「うしろに押して進む」・・・当たり前のことだが、考えていなかった。 わかればやってみる。 もちろん実現のためのテクニックは必要なのだが、考えてやってみるとあっという間に 世界のトップ水準になってきた。 現在、男子100m自由形種目の世界記録と日本記録との差は1秒以内。 もうちょっとで手が届く。

 9.「科学の力で世界と戦う」

考える日本選手・・・リオでの日本選手の活躍にはこんな背景があったのである。
「科学の力」ということを理解していただくために。泳いで進むための「かき」動作の前半部分のケースを例にとってわかりやすく説明したつもりである。 わかっていただけただろうか。  一昔前までは、日本人選手と世界のトップ選手との力や体力には大きな差があると言われていた。 力の差はどうしようもないと諦めに近い考え方が主流であった。 しかし現在、泳ぎの 練習量や筋肉トレーニング量はかえって日本の方が多い。 他のスポーツもそうである。 いまや、欧米選手とは体力的な差がないというのが定説になっている。
力の差とは、今や身体的なものではなく「科学力」の差なのである。 「科学の力」は北島康介選手の世界記録達成に寄与した。 筆者は、1年間カリフォルニア大学水泳チームの強化の お手伝いをして、最先端技術の状況を知ることができた。 競泳以外にも、ゴルフの飛距離、野球のピッチング・バッティング、スキーのジャンプ、漕艇競技、なども担当して強化を行った。  「科学の力」が大きく貢献ことがわかった。 連載することで、競泳にこだわらずに、多くのスポーツ種目にかかわる「科学の力」をわかりやすく解説したいと思うがどうだろう。

表紙に戻る
 

 第2章 「北島康介選手の栄光は科学の勝利!」

 (1)進行停止問題

1.「平泳ぎの特質」

ニッポンのお家芸は平泳ぎであると言われている。 事実国内の大会でも、世界記録が生まれている。
平泳ぎはルール上左右対称動作を行わなくてはならない。 そのためにキックによる加速動作とかきの動作の間に戻す動作が必要なので、その間惰性で進む局面が 存在することになる。 かきやキックの加速が間欠的に行われるので間欠加速種目といわれる。 図1は平泳ぎ1ストロークの各動作のスケッチ図である。  ①ではリカバリーとキックのための足引き動作が行われている。 この間は手も足も加速作業はしていない。 ②はキックでの加速動作である。 ③ではキック後の 「伸び」を取っているところでキック加速の惰性で進行をしている。 ④は手のかきで最高の加速動作をする。 惰性で進むときには身体が水から大きな抵抗を 受けてブレーキがかかってします。 そのため、平泳ぎは「加速とブレーキの繰り返し」の種目であるということになる。 速く泳ぐには、加速の効率を高めて 高速度を実現することが直感的に考えられるが、惰性で進む時に水の抵抗を避けて速度を落とさない技術に習熟することも同じくらい重要なのである。  今回は、北島康介選手の栄光をもたらせた「科学の力」を述べて見よう。

2.平泳ぎの宿命、進行停止

今から25年前のバルセロナオリンピックで、岩崎恭子選手は女子200m平泳ぎ種目で金メダルを獲得した。 当時彼女は14歳になって2週間目であった。  100年以上続いているオリンピックの歴史上最年少金メダリストである。 この記録はまだ破られていない。
バルセロナオリンピック3か月前、アジア選手権での彼女の映像を解析してみよう。 図2は、その時の固定カメラの連続映像である。 当時はまだアナログカメラで画像の質が良くないは我慢して欲しい。

図3のように、映像の水着の境目に着目してみる。 図4は、小さくて申し訳ないが、連続映像の2コマごと(0.666秒ごと)に並べたものである。 上下の 白い矢印に挟まれた水着の境目が上から3コマは左へ進行しているのがわかると思う。 しかし、0.13秒から0.27秒までの3コマは赤い点線の補助線で わかるように止まっている。 その後の下の2コマはまた左へ進行している。 水着の境目は彼女の身体に直結しておる。 手足は動作のために前後に移動して いるが、境目(身体)は止まっていることになる。
平泳ぎでは1ストローク中に、一瞬「進行が停止する」のである。 平泳ぎの宿命である。 これは大発見であった。 この発見にはエピソードがある。  まだ未熟であった我が技術陣は、岩崎選手の金メダル泳ぎの本質を見極めようと、泳ぎ映像の1ストロークを1コマずつ進めて何回も繰り返し観察をしていた。  人間には本質的に固定観念があって、映像に含まれている重大な秘密を見極めるのが難しいようである。 300回以上見ていると飽きと疲れで嫌になってくる。  このような状況になったとき、「あれっ、止まっているのでは。」と気がついたのである。 3時間以上が経っていた。 飽きて疲れると視点が変わる!大きな 収穫であった。 ちなみにこの時のVHTテープは擦り切れて使えなくなってしまった。 この発見が、後の田中雅美選手、林亨(アキラ)選手の活躍を経て、 北島康介選手、金藤理恵選手の金メダルにつながっていった。

3.どのくらいとまっているか

進行状況を調べるためにビデオをコマ送りして計測する。 図4は、計測の様子のスケッチ図である。 選手の腰あたりの水着の線と後方のコースロープの目印 とのズレの距離を1コマずつ測っていく。 図5はそのようにして計った、岩崎恭子選手の進行の様子である。 縦軸はプールの進行位置、横軸はピストルが 撃たれてからの時間の経過である。

   

グラフから最初の部分は左下から素直に右上がりになっており、彼女が順調に進んでいることがわかる。 しかし、15.71秒から15.84秒の0.13秒間 は完全にグラフの線が横這いになっており、時間が進むのに位置は変わらないという停止状態を示している。 止まっているのである。 これはどんな選手でも 定常的におこっていることであり、今では平泳ぎの避けてとおれない道と言われている。
では、世界のトップ選手はどのくらい止まるのであろうか。 表1は、世界の選手の停止時間を計ったものである。 男子トップ選手は0.05~7秒前後、 女子選手では0.12~0.15秒くらいで、体型からなのか女性の方が長いようである。 勿論このデータはトップ選手のもので、一般の選手はもっと長い。  私の経験では日本ジュニア男子での平均は0.1秒台が多かった。女子ジュニアの選手では0.2秒台が多かった。 実はこの進行停止時間がレースタイムを きめる重大な要素なのである。

4.なんとレースタイムの8%が停止時間だ!

岩崎恭子選手はこの時のオリンピック金メダルの200mレースでは99ストローク行った。 岩崎選手の進行停止時間は0.12秒なので全停止時間は 0.12秒 × 99回 = 11.88秒となる。 レースタイム2分25秒××は、145.××秒なので 11.88秒 ÷ 145.××秒 = 0.082 (8.2%)となる。 なんとレースタイムの8.2%が止まっている時間であった。 この現実が信じられるであろうか。 図6は停止時間が8.2%にもなる ことを説明したスケッチ図である。 上の段の帯グラフはレースの中の泳いでいるところだけを取り出したもので、1ストロークごとに必ず進行停止時間が含まれ ている。 200mレースで岩崎選手はこれを99回繰り返した。 下の帯グラフは全レースタイムを項目ごとに分類したもので、当然スタート/ターンに要する 時間が約20%含まれている。 泳いでいる部分を集計して進行停止時間を集めてみるとその合計がレースタイムの8.2%にもなった。 見慣れた平泳ぎのレース、 実は女子200m種目で金メダルだった岩崎選手でも11秒以上止まっているのである。 実際のレースでは、これだけ止まっていても停止時間が99回に分かれて いるのでよく見えなかったのだ。


岩崎選手の停止時間0.12秒は当時としてはダントツに少なかった。 ちなみに、この時銀メダルだったアメリカのベアーズ選手の停止時間は0.15秒で、 岩崎選手との差は1ストロークでは0.03秒と微かなものだった。 しかし、99ストロークすると3秒程の差になってしまう。ひ弱な岩崎選手相手でも3秒もの 差は取り返せない。 当時の岩崎選手の勝利の秘密はこんなところにあったのだ。

5.止まる原因は足の逆行動作

図7は足引き時の選手のお尻あたりの水流の様子を表したものである。 この図はコンピュータで計算した流れ線図である。 図8は、わかりやすいように箱をお尻に 置き換えたスケッチ図にしたものである。 左側の青色の固まりは選手のお尻を示したもので、選手は左側へ進行している。 従って選手のまわりの水は水流として 右へ進んでいる。 水流の中にお尻という物体があると、物体直後には渦ができて身体の中心線のあたりは逆向きに水が流れる。 つまり、aゾーンは進行方向と同じ 方向に水が流れていることになる。 計算によると周りの水流の15%くらいの速度であるようだ。 bゾーンはなにも妨げるものがないので図のように水流が生じて いる。 この図では足は省略されている。

   

図9は、キックのための足引き動作を上から見たスケッチ図で、足と水流との関係を示したものである。 競泳平泳ぎで一般的なウィップキックの場合、強く蹴る ために足引きは膝の間隔をさほど変えないように行う。 そこでかかとやふくらはぎは図のようにお尻の幅からbゾーンへと飛び出してしまう。


身体が進んでいるので、水が後へと流れている状態である。 お尻の幅の内側(aゾーン)は胴体がさえぎっているので直接の水流は来ない。 しかし、bゾーンは さえぎるものがないので直接かかとやふくらはぎに水流があたってしまう。 足引きが開始されて、徐々にかかとやふくらはぎが外に出始めるとまともに水流を受け 始める。 しかもかかととふくらはぎは水流と反対方向に移動することになる。 逆行動作である。 あたかもかかととふくらはぎが進行方向と逆向きに「水をかく」 ことになる。 その強さは当然手での「かき」に比べると非常に大きい。 人間は、足引き姿勢の時は下方に膨らんだパラシュートみたいな形態になっているので、 いくら強い反対方向への強い「かき」があっても後に進むことはない。 止まってしまうのである。 足引きの途中から(かかととふくらはぎがお尻の幅の外に出たら) 進行が止まり、キック開始と同時に進行がまた再開するのである。 結論的には、水流中の足の逆行が進行停止を生じさせるということになる。 足引き動作はキック のための必要動作である。 進行停止は必ず起こる。 平泳ぎの宿命である。 タイムアップにはこの進行停止という課題を上手に乗り越えてなくてはならない。

6.侵攻停止問題!

平泳ぎでは、停止時間問題は極めて重要である。 勝負を決めると言っていいほどだ。 岩崎恭子選手の金メダル勝利のことを解説したが、進行停止時間が0.01秒 (百分の1秒)あると、200mレースでは100ストロークほどかかってしまうので、積み重なって1.0秒もの差になってしまう。 1秒差は距離にして1.5m 以上になる。 今まであまり気にしていなかった停止時間のちょっとの差、これが致命的なのだ。 平泳ぎは停止時間が長いと勝てないということになる。  進行停止状況を調べてみると、歴代の世界のトップスイマーは驚くような方法で乗り切っていることが判明した。 そこで我々は、平泳ぎの「進行停止問題」と呼称して タイムアップの対策を整理した。 個人の思いつきでタイムアップを図る世界に対し、「科学の力」で対策を立ててトレーニングする日本の平泳ぎ界、いまや世界最高の 水準を誇っていると言っても過言でない。
次回は、世界最高水準の「進行停止問題」について分かりやすく解説する。

表紙に戻る
 

(2)一直線技術

1.進行停止問題の対応策

進行停止時間はレースタイムの8%にも達しており、足の引き方の工夫しだいで、大きなタイム差が生じてしまう。 前回の解説で、進行停止時間を短くすることが平泳ぎ を速く泳ぐための重大項目であることを述べた。停止時間が百分の1秒短くなるということは、100ストローク近く行う200mのレースでは、総タイムの1秒短縮と いう大きな結果をもたらすほどのことなのである。 すなわち、停止時間を小さくするという問題は、平泳ぎでの世界の戦いで最も重要なテーマなのだ。
進行停止は足引き時のかかとやふくらはぎの逆行動作が原因であったので、このときの水流抵抗をうまく避ける「抵抗回避技術」がポイントとなる。 我々は、「進行停止 問題」という言葉で、平泳ぎを速く泳ぐための最重要課題として取り上げた。これが今や日本の平泳ぎ技術を世界最高水準にのし上げたのである。ポピュリズム的考え方 からいうと、これから解説する内容は、日本の水泳界にとってトップシークレットなのかも知れない。
足の逆行動作の抵抗を回避する技術を調べてみると、歴史的に、世界中で極めて巧みに実践されていた。プールサイドでウォッチを持って泳ぎ時間を計ることをただ単に 繰り返し行うでではなく、抵抗回避の方法を考えそれの実現のための修熟練習に励むことが重要なのであった。 どうやって抵抗を排除するか、正に頭の使い方の問題で ある。 「進行停止問題」の対応策として、現在認識されているのは4つのパターンである。 項目を挙げてみると、
 1. かかとを腰の幅の内へ。
 2. 浅く引く。
 3. 速く引く。
 4. ストロークを少なくする。
が考えられている。 これらの技術は世界の平泳ぎの歴史で燦然と輝いた名選手達がそれぞれの個性で編み出したものである。
例えば1972年のミュンヘンオリンピックの100m平泳ぎ決勝で、当時の世界記録を大幅に更新して金メダルに輝いた田口信教選手は1.の「かかとを腰の幅の内へ」 のキックで見事に栄冠を獲得した。 本人は「田口キック」と命名している。戦後の日本の平泳ぎで歴史に残る大記録を達成したのは、田口選手のほかに林亨(あきら) 選手、北島康介選手が挙げられる。 田口選手は100mレースで当時の1分6秒台であった世界記録を、一気に1分4秒台に上げての画期的世界記録であった。林亨 選手は1分3秒台の日本記録を一挙に1分1秒台に押し上げた。 この時は世界記録が1分0秒台だったので歴史的には目立たなかったが、記録を出した当時はすごい タイムと皆が感心した。
北島選手の活躍には素晴らしいものであった。 実は、北島選手は2.の「浅く引く」と4.の「ストロークを少なくする」のコンビネーションで栄光を掴んだのである。  リオでの金藤選手の活躍は、4.の「ストロークを少なくする」技術で実現された。 世界と戦う日本の平泳ぎ。今、「進行停止問題」への挑戦が大きな力になって いる。 世界最高水準と言えるかもしれない。選手は、身体的や運動能力的に個別性が高い。「進行停止問題」に対応するには、その個別性を重視しなくてはならない。  どんな方法で対応するか、選手の特性をよく見て考える必要がある。 旧来の体育会系運動部で行われていた、「全員これで行け!」というわけにはいかないのである。
● 対応策1 ―足引きを腰の幅内で行う-
対応策の第一は直感的に思いつく「足引き時のかかとの移動を全て腰の幅の内側に入れる」という技術である。

 

図1のように、Bゾーンで足引きを行うと進行のための 水の流れをかかとやふくらはぎがまともに受けてしまう。 上図は、選手の泳ぎを上から見たスケッチで、足引きの状況を示したものである。下画像は、1995年の 日本選手権優勝の某選手の足を最大に引いた局面の後方から見た水中映像である。 足引き最大時の両足先は離れており、両かかとは腰の幅よりかなり外に出ているのが わかる。 当時の足ひきの通常技術(田口選手以外の)であった。 抵抗排除のため、図2の上図のように腰が水流をさえぎっているAゾーンで足引きを行うという考え方 である。 キックを打つための足を引くときに、両かかとを余り遠ざけないで腰の辺りまで持っていくように行う。 図には両かかとの移動軌跡を点線で示した。こう動作 するとかかとが通るのはすべて腰の幅より内側になるので、進行のための水流を受けることはない。 水流に対する逆行動作が回避されるのである。したがって停止時間は 極端に短くなる。 図の下画像は、林選手の日本記録樹立の時の足ひき最大時の後ろからの水中映像である。 両足が接近して両かかとが十分に腰の幅の内側に入っている のがわかる。 林選手の進行停止時間は0.03秒で、図1の選手は0.13秒であった。 勿論、この選手の時代には「進行停止問題」はわかっていなかった。田口選手 もこのタイプである。 当時北島選手のライバルのアメリカのハンセン選手もそうである。
田口選手や林選手のこの方法はもっとも効率がいいのであるが、問題なのは、一般の選手では股関節や膝の位置関係が好都合でなく、普通に足を引くと腰の幅の外にかかと が出てしまうことである。 無理にかかとを入れて引く動作をすると膝の関節をねじる事になり致命的な故障の原因となってしまう。 足関節の構造がこれに向いている のは、一種の奇形であるが、我々は先天的才能と呼んでいる。 そのような理由で、現状ではこのタイプの選手の数は非常に少ない。
● 対応策2 ―浅く引く-
対応策の2番目は足引きの深さを浅くするという方法である。 この方法は現在世界中で最も一般的である。 北島選手、前200m世界記録保持者のバローマン選手 (アメリカ)、前100m世界記録保持者のスロードノフ選手(ロシア)、岩崎恭子選手、元日本記録保持者の田中雅美選手などなど、世界の多くの選手が行っている。  足引きによる進行停止は、かかとが腰の幅から出てふくらはぎやかかとの逆行時に起こるので、足引き動作の途中から起こる。


図3は、足ひきを浅くした状況のスケッチ である。 図の上は、従来の足の引き方で、キックを強く打つために足を「かかとがお尻にぶつかる」位に深く引きつけることが奨励されて、選手は素直に実施していた。  お尻にぶつかる程に足を深く引くと時間が十分にかかってしまう。 日本人平均的時間は0.3秒前後だ。図3の下のように、もし足引きを途中までにして、そこでキック を開始してしまえば、当然足引きの所要時間は短縮される。 この短縮は進行停止時間の短縮に直接影響を及ぼすことになる。 図4.はトップ選手の足引き深さ計測法の 測定データである。 足ひき最大時のお尻先端とかかとの距離をビデオ映像により測った。 藤枝選手は北島選手出現前の200mの日本記録保持者で「進行停止問題」が 論議される以前の日本のトップ選手である。 この当時は強く蹴るため深く足を引いていたので股関節とくるぶしとの距離は18cmであった。 当時の常識であった。  しかし、そのとき隣のコースで泳いだ世界記録保持者のバローマン選手はすでに足引きを浅くしていたのである。 進行停止を知っていたようである。 その他の選手は、 足引きが深くても関係ない林亨選手と中国の原媛(ヤン)選手を除いて、ほとんどの現代選手が30cm以上である。 ヤン(原媛)選手は対応策3での選手なので参考に 記載してある。 このように1部の選手(対応策1や3)を除いては、「浅く引く」テクニックが現代平泳ぎには必須の技術になっているのである。 ただしこの対応策で 問題なのは、足引きの途中で蹴り出してしまうため、そのままでは強いキックができないことである。 十分に強い蹴りを行うためには矛盾した動作となる。この方法での 「浅い足引き」のキックで強い蹴りを実現するには、足で十分に水を捕える技術と浅挽き状態でも強いキックが出きる蹴り出し筋力の増強が必要となる。 記録を出すため には、強いキックが必須なのは当然である。  そこで、引きつけ途中の浅い引きつけであっても強いキックを打つという特別な訓練を十分にしなくてはならない。20年 近い昔、ナショナルチームのコーチの研究会で、当時圧倒的な速さの世界記録を持つアメリカのバローマン選手の筋トレメニューを分析したことがあった。 その中に 「うさぎとび」で階段を4階まで上がるという項目があった。 当時は「こんな訓練をすればすぐ腰を痛めてしまう。このメニューはダメだ。」とあきらめてしまった。  今考えてみると、当時バローマン選手は浅い引きつけ状態での強いキックを練習していたのであろう。 膝をちょっと曲げた状態での「うさぎとび」ならば腰への負担は ほとんどない。この時代、彼が飛び抜けた速さで十数年間も破られなかった世界記録を樹立していたのは納得ができると思った。 と同時にバローマン選手の先見性の高さ にも驚かされた。 20年後の基本技術となったのである。すごいことだ。 とにかく浅いキックで強く蹴ることを実現するのがこの対応策では最重要課題である。
● 対応策3 -速く引く-
対応策3は足引きを速くすることである。


図5は、その概念図である。 キックのために足を引くと、動作の所要時間がかかる。その動作の後半に進行停止が起こる。  足引きを素早くするとその所要時間が減る。 結果的に停止時間の短縮につながる。 足引き動作を素早くして、足引き時時間を短くして停止時間を少なくするという 技術である。 この方法で泳いで世界のトップタイムを出したのは中国のヤン(原媛)選手である。彼女は岩崎恭子選手のオリンピックの記録を破ってアジア大会で当時の 世界最高記録を樹立した。 残念ながら(嬉しいことに?)彼女はドーピング問題で出場停止になり、世界記録樹立までには至らなかった。 世界的にみても足引きに かかる時間は0.3秒位が平均である。 図6の上図は、腰骨(股関節)とつま先の距離計測法の様子である。 足引きの所要時間を計測するには、ビデオを1コマづつ 送って股関節とつま先の水平方向の距離(寸法L)を測って計測する。 下図はヤン選手について測定されたデータである。 距離(寸法L)を縦軸に、経過時間を横軸に したグラフである。 このグラフの、足引き前の伸び姿勢の股関節から足先までの寸法から、それが減少始めるところを見いだして足引き開始時刻を決める。 ビデオの 画像をコマ送りしても厳密にいつ足引きが開始されるか特定するのが難しいためにグラフにした。 92年の広島アジア大会での女子200m平泳ぎ決勝の25m付近の 映像から計測した。 彼女の足引き時間は0.24秒と短いものだった。 足引き時間の短縮は、直接進行停止時間の短縮に対応する。 素早く引くことで平均的な足引き 時間を0.06秒も短縮している。 停止時間そのものは0.12秒であった。 世界最高水準である。 ヤン選手は停止時間の短縮をこのようにして実現していた。  しかし、足引き時間を短くするのはキックだけでなく平泳ぎ全体のタイミングが変わってしまう。 最初戸惑うかもしれないが、訓練すればできないわけではないようで ある。 引きを速くすると反動でキックの蹴りだし速度が大きくなる傾向が出る。 水の抵抗は物体の移動速度の2乗に比例するので、蹴りだし速度が大きくなればそれだけ 足裏への水の抵抗が大きくなり、キックでの加速効率がより高くなる。好都合である。 この対応策3が今後世界の平泳ぎタイムのさらなる向上の重大なヒントになるかも しれない。
● 対応策4 -ストロークを伸ばす-
述べてきた対策はいずれも1回の進行停止時間を短くする作戦である。 しかし、世界には違う考えで戦っている選手もいることがわかった。正に発想の転換である。  アトランタオリンピックの100m、200m平泳ぎ種目で金メダリスを取った南アフリカのヘインズは両種目とも当時の世界記録であった。 彼女の進行停止時間は 0.16秒なので、200m種目などは、従来選手と同じように100ストローク程行うと、全停止時間は16秒にもなり、トップ水準の岩崎恭子選手などの総停止時間 12秒に比べると4秒ものハンデキャップを持つことになり、世界記録はおろか金メダルも難しいことになる。 ところが、ヘインズ選手は知的な抵抗排除技術で対応して いた。 ヘインズ選手は発想をかえて「総停止時間を減らす」と考え方で挑戦している。 総停止時間は1ストロークにおける停止時間とレースで行ったストローク数を 掛けたものとなる。


図7のように、タイムアップのため総停止時間を減らすには、1ストロークあたりの停止時間を減らすことで実現できる。しかし、1ストロークの 停止時間が多少長くても、ストロークを減らすことが出来れば、停止時間は減らせることになる。 停止時間の長いことによるハンデキャップは解消できる。これが 対応策4である。 ヘインズ選手の実際のユニバシヤード200mレースでは、1ストロークが2m45cmほどで、総ストローク数は78であった。 岩崎恭子選手の バルセロナでの金メダルのときは1ストロークでの停止時間は0.12秒、約100ストロークだったので
   岩崎恭子選手の総停止時間  0.12秒×100回=12.00秒
   ヘインズ選手の総停止時間  0.16秒× 78回=12.48秒
となり、総停止時間は大差がなかったことになる。 ストローク数を減らすのは1ストロークで進む距離を長くすることでできる。 ではストロークを長くするのをどう やって実現するか。 それは、ストロークを長くすることをキック後の伸び(グライド)時間を長くすることで行っている。


図8は、ストロークを伸ばす方法の概念図である。
平泳ぎの1ストロークのサイクルは、足ひき(リカバリー)、キック、一瞬の一直線姿勢(伸び)、かき、そして足ひきへ戻るというものである。 一直線姿勢 は通称「伸び」と言われて、抵抗のない姿勢で惰性進行するという極めて重要な部分である。 一瞬でも一直線姿勢取ることが重要であると言われている。 この惰性進行 部分を長くすると1ストロークでの進行距離を長くできる。 長くなればストローク数を減らすことができる。 これが平泳ぎでのストローク数削減の根幹テクニックなの である。 水中で進むこときは大きな水の抵抗を受けている。 惰性進行時に急に速度が落ちてしまっては逆効果になってしまう。 この局面での姿勢の取り方はきわめて 重要となる。 抵抗の少ない惰性進行姿勢をストリームライン姿勢という。 いわゆる流線型である。 姿勢の取り方が十分であればかなりのあいだ進行速度を持続する ことがわかっている。 上手に姿勢を取れないと、水からの抵抗のためすぐ進行速度が落ちてしまう。 一度落ちてしまったら、キックや「かき」で挽回するのは困難で ある。 ストロークを減らしてタイムアップを計るなどとはとんでもない話になる。 ヘインズ選手の行った知的なこの技術は現代平泳ぎの主流になったが、最も上手に こなしているのは日本選手だと思われる。

2.進行停止問題は平泳ぎの最重要課題!

平泳ぎの「進行停止問題」とその対応策について解説した。 進行停止問題の4つの対策は、そのうち3通りが1ストローク中に1回ある停止時間そのものを短くしようと いうアプローチであり、もう1つがレース全体の総停止時間を少なくしてレースタイムを上げようというものである。 それぞれの対応策にはそれなりのリスクがあるが、 専門的になるので省略する。「進行停止問題」に対するこれらの対応策は平泳ぎの最重要課題であるわかったと思う。 進行停止問題対策は世界中で行われているトライで ある。 正に知的な戦いである。 速く泳ぐ技術は、ただ単に力をいれてたくさん泳ぐだけでなく、泳ぎの仕組みを考えて、 それにあった自分の技術を習得することから 始まる。 仕組みを知って、その課題を克服するのがタイムアップの秘訣であるといえる。「平泳ぎのレースで進行停止問題を考えなければならない」ということは、泳ぎ の動作を解析して初めてわかったことである。

3.北島選手の素晴らしい一直線技術!

25年前のバルセロナオリンピックでは、女子200m平泳ぎで、中学2年生の岩崎恭子選手が金メダルに輝いた。 当時彼女の身長は150cmに到達していなかった。  小さでひ弱な少女の金メダルは、当時女子として0.12秒とダントツに短い停止時間のためであった。 当時は、ごく一部のトップ選手を除いて「進行停止問題」は認識 されていなかった。 北島康介選手は、アテネ・北京での2種目(100m・200m)金メダル連覇の素晴らしい偉業を達成した。 北島選手の進歩は、第1段階は対応 策2の「浅い足ひき」での停止時間短縮、第2段階は対応策4の「ストロークを長く」による総停止時間の縮小、第3段階は「手のかき」による加速力強化で行われた。  彼の進歩の状況のエピソードを述べる。 北島選手と私との出会いは、彼が中学3年生の秋であった。彼は全国中学水泳大会の100m平泳ぎで優勝したが、タイムは1分 5秒台で、中学生としてはトップ水準だが世界的には3流タイムであった。 早速進行停止時間を測ってみると、0.16秒で、世界のトップ水準を目指すことはできない (世界のトップ水準は男子で0.3~7秒台)と思われた。 そのとき「もう平泳ぎ種目は諦めろ」といったことを記憶している。 そして、進行停止問題と世界の状況を 説明し有効な対策が浅い足ひきであることを説明した。 だまって真剣に聞いていた彼は、最後に「わかりました。」とのべた。 1年後再び出会った時は、インターハイ で1分3秒00という日本歴代2位の好タイムで優勝した直後であった。 停止時間を測ってみると0.12秒と小さくなっていった。コーチはまだこのためタイムが上が っているのを知らなかったようである。 あとで聞いてみると北島選手は一人でしっかり意識して練習したと新聞記者に話したそうである。 自分で「しっかりやってもの にする」という北島選手の天才的才能がもたらした結果であろう。


図9は、その「足ひき」状況の変化である。画像が鮮明ではないが、1997年に最大足ひき時のお尻とかかとの間隔は19cmだった。2004年には32cmになって いた。 目視でも「浅い足ひき」状態がある程度わかると思う。 停止時間はその時の0.16秒から、世界に活躍することになった頃は0.07秒へと短縮されていた。  1999年の日本選手権で3位になったレースの直後、北島選手に当時前半27、後半27ストロークで泳いでいるのを全部で40前後に減らすとさらに大幅なタイム アップができることを示唆した。 翌年の日本選手権では従来の日本記録を1秒以上短縮して、1分0秒31という画期的日本新記録を樹立した。世界のトップ水準の記録 であった。 ストローク数は、前半が20、後半が21であった。
図10は、キック後の伸びの姿勢の変遷を見たものである。 1999年には、足の下がった姿勢であったのが、2001年には正に一直線である。 われわれは「世界一の 一直線」と呼んだ。 リオで200m平泳ぎの金メダルの金籐選手も、対応策4で勝利を獲得した。
またエピソード。金藤選手との出会いは彼女が中学2年生の時であった。 中国地区の小中学生を対象にしたブロック合宿に視察で訪れたときの練習中に彼女の泳ぎに 出会った。 短水路プール(25mプール)でのごく常識的なインターバル練習で、折り返し間隔の25mを6ストロークで泳ぐ選手を見つけて驚きの声を上げてしまった。  しかもそれが全体で一番早い泳ぎなのであった。 広島県からきた金藤選手であった。 早速、広島県の親しい理事に「この子はオリンピックでメダルが取れる才能が ある。 広島県で重点的に育ててみたら」と提案した。それから彼女が大学に行くまで5年間、広島県は育成に力をいれることになった。 私の広島通いも5年間続いた。  大学に進学して花が開き、卒業1年目にリオデジャネイロオリンピックでの金メダル。 ゆっくり見える長いストロークのダイナミックな泳ぎ、20年前アトランタの 観客席で見た南アフリカのヘインズ選手の再来であった。

4.「科学の力」が世界を征す!

今や、平泳ぎの「世界で進行停止問題」は避けて通れない。 世界の水泳界もこのように整理はしていないが、徐々に気が付いている。 現在日本は最高水準であると思う。 国内のごく普通に行われている地方大会でいくつもの世界記録が出ている。 すごいことなのだ。  読者には、世界との戦いがこのように行われているのがわかった だろうか。 ただ身体鍛錬のためだけの練習を繰り返すのではなく、「科学の力」でわかった技術を修得するための繰り返し練習を行うのが今の世界との戦いなのである。

表紙に戻る