テーマC-06 | 超LSI基幹ベンチャー起業までの回顧 (NEC在職からリアルビジョン設立まで) |
著者: 杉山 尚志 リアルビジョン 初代代表取締役社長 |
筆者のプロフィール |
概要
大企業(NEC)で半導体の基礎から学び始め、集積回路の進歩に伴って逐一必要となる設計技術と製造技術の改善を、20年間技術者として取り組んできた。 超LSIへの素子の集積と微細化を進めるにあたっては、超LSI共同研究所において電子ビーム描画の際に起こる近接効果を補正する手法を提案し、 NECでは量産工場の自動化を推進する役目を担った。 コンピュータ制御で自動化を進めるためには、国内外の製造装置メーカーと半導体メーカーとの間で、 通信プロトコルの標準化を進める必要にかられ、米国SEMIと協力してSECSという標準規約をまとめ上げた。 大企業病という社内問題を抱え、 社内ベンチャー制度の動きも各社取りざたされている頃、米国のベンチャー企業の仕組みを学び、ベンチャー企業設立の準備を始めた。設立後4年で 東証マザーズ(現在東証2部)に上場することが出来た。
①集積回路との出会い
昭和40年代に入ると日本の大手電機メーカーは集積回路の事業化に力を注ぎ始めた。 NECに入社して最初に配属されたのが、新設されたばかりの集積回路
設計本部で本部長に大内敦義が医用電子関係から転任された。 大内は当初は半導体については専門外ではあったが、その後ミスター半導体と呼ばれ会長にまで
上り詰めた世界的権威者である。 当時はまだ部員が少なかったこともあり、私のような新入社員にも声をかけられ、勉強したての稚拙な半導体物性理論にも
耳を傾け興味を持って頂いた。 私が東大に博士論文を提出する際に、菅野卓雄先生を紹介してくださったのは、この時の御縁の賜物であった。
私が最初に設計したのはNTT向けの交換機用ICであった。 確か100素子(トランジスタ、抵抗)程度からなるICであったが、現在のようなCAD技術
がなかったために方眼紙に素子とそれらを連結する配線を描いていく、配置配線がよくないと再度すべて書き直す、 その繰りかえしであった。 多大な時間を
費やし、その苦労は現在のCAD設計法から想像もつかない非効率なものでした。 カラーフィルムにカッターで切り込み明暗をつけ、設計図面と同じ絵柄を
描いていく。 200分の1に縮小し転写し、ガラスマスクに仕上げる。拡散、酸化、エッチング、露光等の100-200工程の製造をへてICチップ
(ウエハ)が実現する。 その後組み立て工程に入るが、現在のように自動化されていなかったため、人手でボンディングした。 当然ながら生産効率が悪いため、
出荷に間に合わず連日徹夜した経験もあった。 今考えれば、設計から製造、出荷まですべて一人に任されたことがその後の業務には大変役立った。
近年の新入社員にはなかなか経験できないことである。
➁超LSI設計技術
2-1電子ビーム描画技術
集積回路の微細化が進むにつれ、従来から使用されていた光学的な露光方法では素子のパターンが描けなくなり、電子ビームを用いた描画技術が不可欠になった。
しかし、電子ビームが基盤(ウエハ)上に塗られたレジストに当たると電子が散乱し、パターンが歪んでしまう現象が現れる。 近接効果といわれるもので、
これを回避する技術が求められていた。 米国IBMでは次期コンピュータ用の超LSIを実現するための電子描画技術が既に確立されていた。 日本の企業を
競合他社とは考えていない時代であったため、イーストフィスキル工場の最先端生産ラインであるQTAT(クイックターンアランド)ラインを見せてくれた。
電子描画装置が複数台並ぶ多品種少量生産の自動化製造ラインを見せつけられ、米国の力強さに驚かされたものである。
時を同じくして、日本国内ではIBMの次世代コンピュータに対抗できる半導体製造技術の研究開発を目標とした超LSI技術研究組合共同研究所が設立された。
通産省電子技術総合研究所(電総研、現、産業技術総合研究所)、NEC,日立、東芝、三菱、富士通が企業の枠を越えて協力した。 総額700億円を投じ、
通産省の審議官根橋正人が専務理事に、研究所所長は電総研より垂井康夫が着任した。 その後の国内での共同研究機関のモデルとなった。
各社の技術者が一同に会し研究するとなると日頃競合している会社同志のために、ノウハウの流失など懸念されることも考えられたが、解決しなければならない
将来技術はどこの会社も同じで、技術者同志の壁は微塵も感じられなかった。 同じ職位のエンジニアであっても、新幹線のグリーン車に乗れるもの、飛行機の
ビジネスクラスを使用できるものがいるなど各社の待遇面の違いは感じられた。 日常生活では、例えば、直出、直帰と言うことが当たり前と思っていたが、
直行、直宅と言われて奇異に感じる等些細な違いは多かった。
③超LSI量産化技術
3-1超LSI工場の自動化
超LSI製造にはFA(Factory Automation)が不可欠になってきた。 完全な自動化を実現するためには、全製造設備とホストコンピュータ
との間のオンライン通信が不可欠である。 しかし半導体装置は国産品や海外輸入品が数多く使用され、それぞれが独自の通信規格で制御されていたため、
完全な自動化には困難をきたした。 このような背景から、通信プロトコルを標準化しようとする動きが、半導体メーカー、装置メーカー双方からが起こった。
活発な審議が日米を舞台に行われた。まず米国中心で生まれたのがSEMI(半導体製造装置、材料協会)が提唱したSECS(Semiconductor
Equipment Communication Standard)である。日本では電子工業振興協会(JEIDA)のシリコン専門委員会でこのSECS
を取り上げ、日本側の意見をまとめた。
SECSは1977年ヒューレットパッカード社が社内で使用していたものがベースにSECS-1はISO/OSI標準モデルで言う物理層、データリンク層に
あたり、ホストと装置間のメッセージ交換に必要なコネクタ、信号レベル、データレベル、誤り検出回復の方法を規定している。 SECS-2はアプリケーション
層に対応しているが、メッセージ内容を定義している。
超LSI工場におけるFA(Factory Automation)の理想はもちろん完全自動化である。 工場内ではロボットが作業し、コンピュータが全ての
作業を指示する姿だが、一般の工場自動化が作業人員の削減による合理化を目指しているのとはその狙いが多少違っているといえる。 工場内はゴミの侵入を許さ
ない極端な清浄度が要求されるので、ゴミの根源となる人間はできるだけ少なくすることが必要となる。 即ち超LSIのパターン寸法微細化に対応するには自動化
が不可欠というわけだ。清浄度が上がればウエハからとれるLSIの良品率が上がりコスト低減も図れることになる。また、自動化の狙いは今まで述べたゴミの
問題に加えて生産効率の向上と精密な制御という大命題がある。 生産効率の向上とはLSIの生産計画、作業手順などをコンピュータが定め、生産性をアップ
させようということである。 特に最近のLSI工場では生産する製品が多品種化され、一品種あたり1-3枚のウエハを一組(ロット)とし、1万―2万組の
LSIを生産するライン形態が増えてきている。 品種ごとにウエハ制作工程の手順や作業条件が異なることが想定され、ラインの中でどの半導体装置でどの品種
から処理したら生産効率が上がるかの判断は人間では難しい。 半導体設備にはウエハを一枚ずつ作業する枚葉処理装置や25-100枚まとめて作業するバッチ
処理装置とが混在する。 バッチ処理では、どのロット、または品種をまとめて作業するのが効率的かの判断も必要であり、生産管理を益々複雑なものにしている。
(筆者寄稿日本工業新聞より抜粋)
④ベンチャー起業
4-1設立の思い
ベンチャー企業とはイノベーション(革新性)を歯車とし、高いアントレプレナー(起業家)がリスクにチャレンジしながら、その夢を実現しようとする企業である。
国内大手電機メーカーは大企業病の弊害をなくすべく色々検討が進められた。 NECにおいても同様で、佐々木元会長がリーダーとする改革プロジェクトが発足
され、その中で、企業内企業いわゆる企業内ベンチャーの推進が取り上げられ、当時の関本社長は事例を示し社外に発表される等力を注いでおられた。
大変興味ある話ではあったが、具体的に考え出すと、社内でメンバーを揃えることの難しさ、資金集めの制約等があり難しく感じられた。
米国カルフォルニア州シリコンバレーのベンチャー企業とのお付き合いを通じて、活気あふれるエンジニアの姿を目の前にして驚きを感じた。 特にS3社の
ダドバナタオCEOは世界に先駆けグラフィックスLSIを開発、日本の大手企業にも多く採用され市場も拡大していった。その勢いをもって米国ナスダックに上場した。
家庭に招かれることもあったが、プール付き大豪邸にすみ悠々自適な生活を楽しんでおられた。 ウサギ小屋の我が家に住むものには極めて衝撃的な出来事でした。
これらの要因がNECを離れ、ベンチャーを起業する引き金になっている。
S3のダドさんには上場時にリファレンスになって頂いたことが、機関投資家等からの資金調達を容易にしたと考えている。
ベンチャー企業の仕組みをより詳しく考えるようになった。 上場によるキャピタルゲインが資金調達の根底にあることを知った。 当時の日本では余り馴染みある
話でなかったので日経新聞の囲い込み記事にも取り上げられた。 タイトル「企業人への手紙」平成4年より抜粋。 日電は60歳定年だが、56歳で管理職はポスト
を外れる。その前に50歳前後から子会社への転出話が出てくる。 ピラミッド型の企業組織では、有能でも間引きの対象にされる場合がある。日本の大企業は、
終身雇用を建前にしているが、多くのサラリーマンは定年を前に、会社を去っていく。人生はお金ばかりではないとは言え、ゴールが近づいてくれば、いやでも現実が
見えてくる。地価高騰は資産格差を広げた。 持ち家のあるなしで蓄えにかなりの差が出る。例え持ち家があっても住まいは売れない。老人社会になる来年は年金も
パンクする恐れがある。最後に来て、貧しい蓄えを見てサラリーマン生活の帳尻が果たしてあっているかどうかを悔いても遅い。 「まだ力があるうちに」と杉山氏は
飛び出した。 「社員が定年までに最低1億5千万円の蓄えが出来るようにしたい。」と語る。 1億5千万円あれば年率7%で運用して年収1千万円が可能。
「これなら新しい人生を自由に始められるから」という。
仕組みはベンチャービジネス(VB)への投資を軸にしたものである。米VBとの合弁事業を積極的に進める方針だ。 その際、合弁相手の増大する資金需要にこたえて、
従業員による投資を組織化しようという点がミソである。 首尾よく相手のVBが株式を上場すれば、数十倍のキャピタルゲインが得られるとの計算だ。 期待される
キャピタルゲインは創業者利得の配分である。
4-2産学連携
国立大学の独立法人化への動きもあり、ベンチャー企業への理解も深まってきた時代でもあった。 政府のキャンパスインキュベーション構想の中に大学の技術移転を
本格的に始めるためにTLO(Technology Licensing Organization)と呼ばれる機構が理工学振興会のなかに作られた。
東工大においても産学連携の拠点として、フロンティア創造協同研究センターが立ち上がると同じくしてベンチャービジネスラボラトリー(VBL)がスタートした。
「21世紀に東工大はどうなるか」をテーマに座談会が開かれた際にベンチャー企業の一員として参加した。 蔵前ジャーナル(蔵前工業会誌)に掲載された内容から
抜粋した。 VBLではベンチャービジネスについての教育をやらなければならないし、ベンチャー企業の種になる研究やそういった萌芽的なものをも育てなければ
ならない。
何%の人がどんな産業についているかという報告がある。 1973年をピークとして、製造業人口比率は減少過程にある。1994年にはサービス業に追い越された。
私が過ごした1960年代は日本では製造業が農林業を追い越して、工業の時代が本格化した。 それからほぼ30数年を経て製造業がサービス業に追い越される。
これまでが工業大学の最盛期であった。 工業への人材供給機関として、工業大学の存在意義を誰も疑わなかった。しかしサービス産業よりも製造業の人口が少なくなる
という状況を迎え、21世紀の東工大はどうなっていくかが問われる時代であった。 サービス業が上がってきたのは、コンピュータとかLSIチップとか製造業が
作ったものをどうゆうふうに有効活用していくか、利用技術に移ってきたことによる。 少子化、高齢化に伴い就業人口がどんどん減る。働く人の効率化も図らなければ
らない。 製造業に限っても技術者の能力を新しい時代に向けて展開しなければならない。 アメリカでは大学を卒業した一番優秀な人はベンチャーをつくる、
次に優秀な人はベンチャーをつくる人についていく。 一番だめな人が大企業にいく。 ところが日本では馴染まない。 アメリカと日本のギャップをどう埋めてきたか。
そこを解析するなかで、基本的な施策が見つかる。 アメリカにはインターシップ制度が根付いている。 ストックオプションなどインセンティブを与えながら産学協同
が進むようになる、
1998年世界21か国のベンチャービジネス研究者がGEM(Global Entrepreneurship Monitor)を組織した。成人の企業予定率
(成人の何パーセントが新しい事業を始める予定があるか)とGDPの成長率の関係が示されている。企業予定率が高いほどGDP成長率が高いと言われている。
米国の企業予定率は約13%、ドイツが5%に対して、日本は約1%と極端に低い。 産業構造変革が期待されている時代には何と心もとない限りである。 歴史のある
大企業は、通常成熟した技術を前進させる点ではリーダーにはなれるが、革命的な新技術でリーダーになることはめったにない。 GE,ウエスティングハウス、RCA
等米国の名門電気メーカーは真空管から半導体への移行に失敗している。 米国が半導体産業で主導権を握ることが出来たのはインテルなどの新興大企業のお陰である。
私はインテル創業者アンドリュ❔グローブと知り合う機会があり、彼の著書である“Physics and Technology of Semiconductor Devices” の翻訳許可を打診したところ、
快諾してくれた。日本でのタイトルは「半導体デバイスの基礎」と訳され、現在でもバイブルとして学生、技術者の間で広く読まれ続けている。
参考文献
①宮崎台:共同研究所記念誌 超LSI技術研究組合 昭和55年
➁杉山:実用ASIC技術、工業調査会、1987年初版
③前田昇:スピンオフ革命 東洋経済新報社、2002年
④N.sugiyama et al,”Proximity effect correction in EB lithograpy for
VLSI microfabrication” IEEE Int.Solid-State Circuit Conf. Dig.Tech.Papers 1979
⑤東京工業大学同窓会誌「蔵前ジャーナル」2000年1月
⑥杉山共訳「半導体デバイスの基礎」マグロウヒル出版、1986年初版