テーマA-08 | 草むらからの出発 | 関連データベースへアクセス |
著者: 「経営労務林事務所」 元三菱ケミカル(株)勤務 林 繁和 | 私のプロフィール |
昭和37年4月28日、新制高等教育機関として設立されたばかりの国立工業高等専門学校(以下高専と略す。)全国12校のうちの一つ、
鈴鹿高専で入学式がとり行われた。
学校長・教授他教職員、来賓、第一期入学工業化学科、電気工学科および機械工学科の三科合わせた学生132名が参列した。場所は鈴鹿市、電電公社鈴鹿電気通信学園
(当時)内の軍用航空機格納庫に使われていた大きな倉庫建屋内ににわか作りされた仮校舎内。この仮校舎は約1年間使った。一歩外に出たら一面荒れた草むら、まさに
草むらからの出発であった。この草むらであった鈴鹿市白子町官有地に昭和38年3月25日新校舎第一期工事が竣工した。
鈴鹿高専入学から・・・・57年・・・
平成31年3月、平成最後の年、筆者はもう満72歳、でもまだまだ現役である。元号も改まり、新しい時代が始まったらそろそろ職業生活のスローダウンを考えなければと
感じている今日この頃である。 それでは私の人生の出発点となった新たな高等教育機関、国立鈴鹿高専について少し振り返ってみることにしたい。
一、三重県鈴鹿市立神戸中学3年生
進学高校目指して受験のための課外授業を受けていたとき、担任の先生に呼び出された。「林君、今度鈴鹿に国立高専ができる。新制の高専一期校で、かなりの難関となる
ようだ。 腕試しに受験しないか?」県立高校入試に先駆けての入試だった。合格倍率は、受験生40人以上が受験していた一つの教室で、1人か2人合格者が出るかどうか
だった。 結果は何とか合格。まだ制度としては未知で、産業界での評価にも不安があった。入学するかどうか迷った。しかし校長と担任の先生の強い勧めで入学すること
に決めた。
二、国立鈴鹿高専工業化学科入学
入学式には、三菱 岩崎小弥太社長の信頼が厚く、1956年に三菱油化株式会社を設立し初代社長になられた故池田亀三郎氏がご来賓だったと記憶している。 この池田氏が、
四日市石油化学コンビナートに近い鈴鹿の地への国立高専一期校誘致にご尽力されたと聞いている。 とにかく高専の学生生活がスタートした。未だ寄宿舎はなく、
バス通学となった。
三、在学中
組まれたカリキュラムは、5年間で高校+大学計7年分以上をこなすことだった。たしかに大学受験勉強は省けたし、効率的な工科系の高等教育システムだと感じた。
そして「知・徳・体」の重視が一貫した教育方針であった。
① 一般教養科目
国語、倫理社会、日本史、世界史、地理、法制経済、数学、物理、化学、保健体育、芸術、英語、第二外国語(ドイツ語)および特別教育活動などであった。 数学は最初の
3年間で高等数学までみっちり組まれていた。 英語は4年間、力が入った。 文法、読解はもとより特に会話力がついた。 名物教授の後藤先生の口癖 ”Anyone ?”
・・・”Mr. Hayashi !” 「きたか!」 話さざるを得なかった。 2回生くらいから自然に英語が口から出るようになった。 さすが名物、後藤教授! 三十代半ば、
アメリカの超一流化学企業2社と共同研究のためアメリカに長期滞在したときや、海外交流企業の一流研究者・技術者を日本に招いたときの応対に大いに役立っている。
第二外国語はドイツ語。2回生から始まった。 当時の愛知県立女子大、富田教授が招聘された。 ” Ich heisse Tomita.” “Wie heissen sie ?” で始まった。
夏休みには「緑陰のドイツ語」特訓、読解には、アルベルト・シュヴァイツァーの「水と原生林のはざまで」、テオドールシュトルムの「イムメン湖」などを原文読破した。
このドイツ語は、やはり三十代後半、ルドビッヒスハーフェンにあるドイツ大手化学会社に長期滞在して共同研究を取り進めるのに大いに役だった。 レンタカーで主だった
アウトバーンを運転して、”Zimmer Frei” の宿を見つけて旅をするのにも抵抗はなかった。 保健体育の時間について、まだ水泳プールがなかった(水泳プールは
昭和47年3月、創立10周年の年に竣工)。金槌だった私が、伊勢湾沿岸の千代崎から鼓ヶ浦近辺往復約10Kmの遠泳ができるまでにトレーニングされた。
② 専門科目
応用数学、応用物理・同実験、図学、無機化学・同実験、有機化学・同実験、分析化学・同実験、材料工学、機械工学概論、電気工学概論、化学工学・同実験、無機工業化
学概論、有機工業化学概論、設計製図、実験実習、有機合成化学、理論有機化学、高分子化学、機器分析化学、工業物理化学、石油化学、燃料化学、理論物理学、自動制御、
安全工学、推計学大意、工場管理、卒業研究等ぎっしり組まれた。 化学工学では今や懐かしい計算尺を使い、化学専攻なのに設計製図では雲形定規、烏口を用いて墨入れ
をした。 化学実験器具はガスバーナーを用いたガラス細工により自作した。 卒業研究は、指導教官であった矢野教授(後の学校長)のご専門が油脂化学であったため、
テーマは「ダイマー酸の合成と応用」となった。減圧蒸留実験中、留分が漏れて引火し小火を出してしまった。 幸い実験助手の先生の助けを借りて消火器で消し止めること
ができたが、真っ白な実験室の天井が一部黒く焦げた。卒業後20年目に実験室を訪れたとき、天井はまだそのままになっていた。 後輩達に注意を促すための伝説の
注意信号にされていたらしい。 この経験が生きて、後に三菱油化(現三菱ケミカル)株式会社入社後、甲種危険物取扱者、衛生工学衛生管理者、第一種放射線取扱主任者、
第二種酸素欠乏危険作業主任者、大気関係第一種公害防止管理者、甲種化学高圧ガス製造保安責任者、危険予知活動トレーナー等の免許を取得し、280Mpa(メガパスカル)
の超高圧重合設備、高濃度シクロヘキサンを用いた高吸水性樹脂製造装置などの運転・維持管理において、火災、爆発、労災を一切発生させることはなかった。
後に工場の安全管理者となった。
四、就職・会社生活
① 就職
高専5回生になった。卒業研究の見通しもついた。さて就職活動である。 一期生の場合、卒業したら就職するしかなかった。 国立大学等3回生への編入学ができるように
なったのは二期生からで、専攻科が設置されたのは平成5年である。 工業化学科第一期生のうちM君1名を除いては、全員希望する就職が決定した。 M君は東工大を受験し、
一発合格した。 私は迷わず池田亀三郎社長率いる三菱油化株式会社を希望した。 昭和41年7月11日、初めて東海道新幹線で東京に向かい、三菱油化株式会社目黒尞に
前泊して、翌12日午前、丸の内の本社で、第一線の技術者・研究者から専門面接を受けた。 その場で出されたテーマの一つが「反応におけるポテンシャルエネルギーの
変化と活性錯合体、遷移状態」についてであった。 横軸に反応座標、縦軸にポテンシャルエネルギーを示し、反応物から遷移状態を経て生成物に至るポテンシャルエネルギー
の変化と、活性化エネルギー、反応熱について説明した。 面接を終えてその日の夜、鈴鹿市の自宅に帰ると、「17:40着でサイヨウナイテイ」の電報が届いていた。
昭和42年4月、三菱油化株式会社本社で入社式。 終了後の懇親会で池田社長に鈴鹿高専でご講演いただいたお礼を申し上げたら、にっこりうなずいていただいたのが心に
残っている。 三菱油化株式会社、昭和42年入社同期は、大学院卒、大学卒、高専卒合わせて65名。 年次の差は4年、私は最若手であった。 現在でも毎年、三菱油化
株式会社の創立記念日4月10日に、東京丸の内のレストランでY-42同期会を開催し懇親を深めている。 今年も28名が参加予定と聞いている。
② 会社生活
三菱油化株式会社本社および事業所で2ヶ月間の集合研修、現場実習の後、四日市事業所高圧法ポリエチレンプラントの技術スタッフとして配属された。わが国の石油化学
工業草創期のプラント技術は、ほとんどが海外からの技術導入に頼っていた。 高圧法ポリエチレンプラントも例外ではなく、西独(当時)B社からの技術導入であった。
毎年研究会議があり、ドイツ語で届く膨大な技術レポートの翻訳にもかり出された。 鈴鹿高専時代習ったドイツ語が役立ち、抵抗はなかった。 ドイツ人技術者とも親交が
できた。 ドイツにおける研究・技術スタッフはほとんどがドクターの学位を持っていた。 自宅に伺ったときも、表札に「Dr.*****」と書かれていたのには驚いた。
その後家族ぐるみのお付き合いとなり、来日時お茶会への接待や京都奈良を案内した。今でも親交が続いている。
まもなく工場技術部を経て、二十代半ばで東京本社樹脂本部企画管理部勤務となった。 営業担当に同行して、ユーザーである大手電線メーカー、容器・製缶会社、
製袋メーカーなどを回り、原材料調達企業やお役所等にも参上した。 内では中長期経営計画、販売計画に基づく生産計画、技術開発アイテム選定と予算化、利益計画、
要員計画等の策定にも下働きで参画した。 プライベートでも、世田谷区深沢にあった単身寮に住み、先輩・同僚と充実した休日・休暇を過ごすことができた。
三十歳を前にして樹脂開発研究所勤務を命ぜられた。 三菱油化株式会社では、上意下達のみでなく、自由闊達に議論し、研究者が提案した新規研究開発テーマが有望と見れば
短期に予算を付けてくれた。 ここで私の会社生活の三分の二を占めることになるライフワークテーマを提案した。 今日現在、国内のかなりの高圧法ポリエチレンプラントが
採算性不良のために停止を余儀なくされているが、開発した第三のポリエチレンは、メタロセンポリエチレン ”カーネル” として商標登録され、高付加価値差別化製品
として市場でも高く評価されている。 製造プラントも従来の高圧法ポリエチレンの十分の一以下の圧力で安定運転され、収益性も良好と聞いている。 上記は基礎研究
⇒ 開発研究 ⇒ 工業化 と一連の課程に主導的立場で携わることができ成功した例である。 もう一つ取り組んだのは「高吸水性樹脂」いわゆる「SAP」の製造技術開発
であった。 SAPの製造方法は大きく二つに大別される。 一つは用途の関係から現在主流となっている塊状重合法、もう一つは転相懸濁重合法である。 前者はアクリル酸
ソーダを溶液中で重合・架橋して塊状の生成物を得、後に機械粉砕する方法である。 私は後者の方法で取り組んだ。 技術としては製品粒子の大きさ、吸水性能および給水後
のゲル強度ともコントロール自在で成功したが、主たる用途である紙おむつとの相性が良くなかった。 転送懸濁重合法は、先ずアクリル酸ソーダモノマーが溶解した水相に
シクロヘキサンの油相を作り、添加剤を加えて攪拌、昇温していくと、ある時点で転相し、油中水滴型のエマルジョンとなる。 この後重合・架橋すると綺麗な真球状のSAPが
得られる。 しかし形が美しすぎて紙おむつとは相性が悪いのである。 すなわち紙おむつの不織布に均一に散布しても、まん丸いために分球し、SAPが偏ってしまう。一方の
機械粉砕したものは、形が不定形のであり、紙おむつの吸水エリアに均一に分散されたまま保持できる。 会社としては、他に大きな用途も見つからず、工業化を諦めざるを
得なかった。砂漠の緑化、農園芸、鮮度保持剤・消臭剤・使い捨てカイロ等の雑貨や掘削推進工法の潤滑剤等の用途が時代と共に伸びてくれば、また復活の可能性が出てくる
かもしれない。
五、独立(理・文、人生二毛作および生涯現役を目指して)
第三のポリエチレン製造に関する基礎研究、開発研究が完成し、用途開発も進んで水島事業所にコマーシャルプラントを建設することになった。倉敷に単身赴任しプラントの
設計建設や運転マニュアル、安全指針作成に携わった。 完成したのは私が満50歳になる少し前であった。
さて次は何をしようか? 第三のポリエチレンは、30代、三菱油化株式会社時代にスタートさせたプロジェクトであったが、これから研究者として新しいテーマを提案・
遂行していくことにはためらいがあった。単なる管理職でやっていくのも性に合わない。 それに合併して三菱化学株式会社になってから、工業高専卒では少し肩身の狭い思い
がしていた。 30年努めた会社を自主退職することを決断した。 次は何をするか? 長い間の管理職経験の中で感じ取ったことは、時系列に沿って未来に向けて企業が確実
にCSRを達成していくためには、その時々におけるコンプライアンス維持が基本である。 そのコンプライアンスを脅かす最大のリスク(おそらくリスクの80%以上)は人
(従業員)であると考えていた。 最近のパワハラ、過労自殺、検査不正、大学の入試選抜不正や統計不正等をみているとまさにその通りである。 科学や技術にはセオリーが
あり、セオリーに忠実に実行すれば目的は達成する。 しかし人事・労務管理には確実に通用するセオリーがない。 そこでたどり着いたのが人事・労務管理のスペシャリスト
である社会保険労務士だった。 資格を取り社会保険労務士事務所を開業した。 現在大手企業のコンサルティングを含め、クライアントは100を超える。人事・労務関係だけ
でなく、技術的なコンサルティングを依頼されることもある。 今年は開業20周年を迎える。 個別労使関係紛争における裁判外紛争解決手続制度に則った代理業務ができる
特定社会保険労務士の資格も、制度制定第一期で合格した。
六、理の総仕上げ(大学院博士課程)
事務所が軌道に乗った頃、研究者・技術者としてのライフワークであったメタロセン触媒重合について、工業化までこぎつけたが、触媒の分子構造、重合条件と反応機構・
反応速度論的解析が不十分であることが気にかかっていて、東北大学大学院博士後期課程の門を叩いた。 職業を持つ身である。仙台に長期滞在はできない。朝5時に家を出て、
セントレアから飛行機で仙台空港に飛び、9時の講義に出席、夕方5時に学業を終わって飛行機でトンボ返りして翌日勤務という日が数え切れないくらいあった。 冬場雪の
ために、札幌からの機体が間に合わず、仙台空港泊という思い出もある。 しかし何とか3年間で学位を得ることができた。 工学の学位と社会保険労務士業とは関係ないように
も言われるが、「理」と「法」、根本では共通するところがあると感じている。 おかげでその後様々な社会貢献をすることができている。 大病院の医師臨床研修制度
研修管理委員会委員、津地方裁判所(鈴鹿簡易裁判所)民事調停委員、司法委員、独立行政法人高齢・障害・求職者雇用支援機構の高年齢者雇用アドバイザー、社団法人全国労働
基準関係団体連合会の労働時間改善 診断・指導アドバイザーおよび三重県社会保険労務士会理事・綱紀委員会委員長などである。
七、私の職業人生の基盤である国立高専の将来について
いまでもつくづく鈴鹿高専に在学したことのありがたさを感じている。 理系にしても文系にしても考え方の基礎を養成された。 後は必要に応じて自分自身が如何に努力
していくかである。 大学や大学院に編入学して同一分野で研究を深めることもできるし、異分野に進むこともできる。高専の専攻科で研究を深化させることもできる。 今の
高専学生は本当に幸せである。 即戦力の研究者・技術者として企業へ勤務することが本来の工業高専制度本来の目的であるが、学生の意向で大学・大学院への進学校であっても
いいと思う。 余裕を持ってより高度な研究に取り組むことができるであろう。 企業においても在学年数や学位そのものではなく、研究者・技術者としての基礎的な知識、
研究や技術開発に取り組む姿勢を評価してほしい。 私の生き方の基本は、温室で大事に育てられた植物よりも、鈴鹿高専がスタートした土地に生えていた雑草のように、
どんな風雪にも耐え、コンクリートの裂け目を割ってたくましく成長していける雑草魂である。
― 以 上―